満州事変 1931年9月18日夜、満州全土の占領計画を立てた上で柳条湖の鉄道爆破が実行された。翌日、奉天特務機関長土肥原大佐は奉天市長として軍政を敷き、奉天・長春・営口を占領、満州全土に戦線を拡大。第2次若槻内閣は不拡大方針を決定したが、軍部や関東軍によって無視された。
満州事変
1920年代末、中国において国民政府のもとで中国全土統ーの動きが進んでいた。満州においても、1928(昭和3)年、張作霖のあとを継いだ張作良政権が、同年12月、国民政府の勢力下に入った。国民政府は中国全土に広まりつつあった民族運動を背景に、これまで列強諸国に与えていたさまざまな権益の回収(治外法権の撤廃・関税自主権の確立・鉄道権益の回収・外国人租界や租借地の回復・国外軍隊の撤退など)をめざして、国権回復に乗り出した。また、満州をはじめ中国各地で組織的な日本商品のボイコット(日貨排斥運動)が行われ、中国側により満鉄並行線が敷設されて、満鉄の経営が赤字になるなど、政治的にも経済的にも満州における日本の活動は大きな打撃を受けた。 満州は日露戦争以来の日本の特殊権益地帯であり、対ソ戦略拠点としても、重工業発展のための重要資源供給地としても、日本の「生命線」とされていたので、中国側のこのような国権回復の動きに直面して、日本側、とくに陸軍の間に危機感が高まった。そのころ日本国内では、1931(昭和6)年4月、立憲民政党の第2次若槻内閣が発足し、幣原外相を中心に中国政府との間に満蒙問題などをめぐって外交交渉を続けられていたが、日中間には懸案の問題が山積し、交渉はなかなか進まなかった。こうした状況のなかで、関東軍を先頭とする日本の陸軍部内には、幣原外交を「軟弱外交」と非難し、「満蒙の危機」を打開するために、軍事力を発動して満州を中国の主権から切り離し、日本の支配下におこうとする気運が高まった。
❶ 満州事変の勃発(1931年9月)から第二次世界大戦の終結(1945年8月)まで、足かけ15年間(正確には13年11ヶ月)を一連の戦争とみなして、「十五年戦争」という呼び方がしばしばなされている。しかし一方では、塘沽停戦協定の成立(1933年5月)で満州事変は終結し、以後、日中戦争の勃発(1937年7月)まで日中間にはとりたてて戦闘行為はなかったので、「十五年戦争」という呼称は学問的に不正確で不適切だとする考え方も有力である。

柳条湖事件
事件直後、関東軍は鉄道線路爆破を中国軍(張学良の軍隊)の仕業と発表したが、実際は武力行使の口実をつくるため、板垣征四郎(1885〜1948)大佐・石原莞爾中佐ら関東軍参謀の一部がひそかに計画し、関東軍の現地部隊に実行させたものであった。計画立案の中心となったのは石原で、彼は将来、日本がアメリカと世界最終戦を戦うものと予測し(世界最終戦論)、かねてからそれに備えて満州を日本が占領することを計画していた。軍司令官の本庄繁(1876〜1945)は着任早々で満州の事情にうとく、棚あげされて参謀たちの陰謀には関与していなかったと思われる。犬養内閣も満州国承認を渋っていたが、同内閣が1932(昭和7)年5月、五・一五事件で倒れ、斎藤実(1858〜1936)内閣が成立すると、軍部の圧力と世論の突きあげにあって、政府も満州国承認に傾いた。この間1932(昭和7)年に排日運動は華中の上海にも飛火し、同年1月には上海事変がおこったが、列国の強い抗議によって5月に停戦した。