産業・経済の発達(鎌倉時代)
巨福呂坂切通し『一遍聖絵伝』(画像出典:詳説日本史研究)

産業・経済の発達(鎌倉時代)

> >

/

産業・経済の発達(鎌倉時代)

手工業は農作業の副業、家内仕事として始められ、公事として納めた残りは荘園内の市などで必要品と交換していた。農業生産力が増大すると、原料作物の収穫が増加し、手工業品の大量生産が可能になった。農民も富を蓄え、品物の入手が容易になり、手工業品は商品として確立した。専門の手工業者として独立して賃仕事をする職人が生まれ、商業活動も活発になり、中期には月に3度くらいの定期市が開かれた。貨幣経済が浸透し、借上、為替や問、頼母子・無尽などがうまれた。

産業・経済の発達(鎌倉時代)

鎌倉時代には、手工業の発達が顕著にみられた。手工業は農作業の副業、家内仕事として始められた。荘園内の農民は、領主に公事を貢納するために桑・麻・からむしこうぞうるし・茜・藍・荏胡麻えごま・茶などの作物を栽培し、生糸・絹布・麻布・真綿・紙などをつくった。例えば、苧は茎の皮から繊維をとって糸をつくり、ちぢみさらしなどの布を織った。楮は樹皮を和紙の原料とし、漆は樹皮からしぼった汁を器などの塗料とした。茜は根から暗赤色の塗料を、藍は葉から藍色の染料をとった。荏胡麻は種子から油をとり、灯油に用いた。このほかむしろ・桶・杓子などの手工業品がつくられた。これらの品々はまず公事として納められ、残りは荘園内の市や地域の中心地の市で必要品と交換された。

こうした状況を根底から変化させたのが、農業生産力の増大である。つくり手においては原料作物の収穫が増加し、手工業品の大量生産が可能になった。手工業品を必要とする農民の側は富を蓄えつつあり、品物の入手が容易になった。ここに手工業品は商品として確立するにいたった。つくり手は通常の農耕によらずとも手工業品を生産して生計を立てることが可能になり、専門の手工業者として独立して賃仕事をする職人が増えてきた。彼らのうちには荘園内に定住する者もあり、いくつかの荘園を歩きまわって生活する者もいた。

産業・経済の発達(鎌倉時代)
巨福呂坂切通し『一遍聖絵伝』(画像出典:詳説日本史研究)

鎌倉と得宗領の山内荘とを結ぶためか、庶民の店もならび、商業が発展した。

手工業品が商品化したことを受けて、商業活動も活発になってきた。荘園の中心地、街道や港湾・河川などの交通の要地での市の存在は平安時代末期から確認できるが、鎌倉時代中期にはそうした要地に月に3度くらいの定期市(三斎市さんさいいち)が開かれた。市では手工業品が盛んに取引され、年貢米や各地の特産物も広く流通するようになった。

当時、都市といえるのは京都・奈良・鎌倉ぐらいであったが、これら3都市、とくに京都では常設の小売店(見世棚みせだな)もつくられた。京都や奈良に集まる商工業者たちは、すでに平安時代末期から同業者の組合としてを結成していたが、彼らは朝廷や領主に税を貢納し、見返りとして商品の生産や販売の独占権を得るようになった。

この時代の経済でとくに記すべきことは、貨幣経済の浸透である。日宋間の交易で銭が輸入されたことはすでに記したが、 日本にもたらされた宋銭の総量は2億貫にものぼるという。現在、中世考古学による遺跡の発掘から、10万枚単位で銭貨が発見されており、宋銭の数がぼう大であったことは疑いがない。貨幣経済は都市はもちろん農村にも広がり、荘園の貢納も、税としての生産物を貢納責任者が市で貨幣にかえ、都市部の領主に送ることが多くなった。土地売買の証文を例にとると、鎌倉時代初期は米による土地売買60%、銭による土地売買40%だったものが、鎌倉時代末期には米15%、銭85%に変化している。

借上『山王霊験記絵巻』
借上『山王霊験記絵巻』(画像出典:詳説日本史研究)

13世紀前半、京都から鎌倉へ訴訟に下った女性が病気のために金にこまり、借上から金を借りているところ

貨幣の流通が盛んになるにつれ、貨幣の取引や貸付を専門に行う金融業者も現れた。この高利貸業者が借上かしあげである。遠隔地間の代金決済の方法としては、金銭輸送を手形で代用する制度の為替が用いられた。為替制度の運用に当たった業者がとい(問丸)で、彼らは各地の港や大河川沿いの交通の要地に位置し、商品の中継ぎと委託販売、運送を業務としていた。間ははじめ荘園領主の支配下にあり、特定の荘園の商品のみを扱っていたが、鎌倉時代末期になると領主から独立して営業した。荘園の物資を倉庫に納入し、適当な時期に市に出して利益をあげた。のちの問屋といやはこれからおこった。

借上や問の商業活動は、畿内・瀬戸内沿岸でとくに顕著であったという。また、貨幣経済の深化を前提として、民間に頼母子たのもし無尽むじんと呼ばれる相互金融システムができたのも鎌倉時代のことであった。

広告
広告