織田信長
紙本著色織田信長像(狩野元秀画/長興寺蔵/重要文化財)©Public Domain

織田信長の統一事業

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織田信長の統一事業

信長は組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、優れた軍事指揮者としてつぎつぎと戦国大名を倒しただけでなく、伝統的な政治や経済の秩序、権威に挑戦してこれを破壊し、新しい支配体制をつくることをめざした。
全国一の経済力をもつ自治的都市・堺を直轄領とし、畿内の経済力を掌握。交通の障害となっていた関所の撤廃。安土の城下町に楽市令により自由な商業活動を促す。仏教勢力の弾圧。

織田信長の統一事業

信長の領土拡張地図
信長の領土拡張地図 ©世界の歴史まっぷ

戦国大名のなかで全国統ーの願望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長(1534〜82)であった。信長は尾張守護代の家臣であった織田信秀(1511〜52?)の子で、1555(弘治元)年に守護代を滅ぼしてその居城清洲(須)城を奪い、まもなく尾張を統ーした。ついで1560(永禄3)年尾張に侵入してきた今川義元(1519〜60)を桶狭間の戦いで破り、1567(永禄10)年には、美濃の斎藤氏を滅ぼして肥沃な濃尾平野を支配下においた(稲葉山城の戦い)。信長は、斎藤氏の居城であった美濃の稲葉山城を岐阜城と改名してここに移り、「天下布武」(天下に武を布くす)の印判を使用して、天下を自分の武力によって統ーする意志を明らかにした。翌年信長は、暗殺された前将軍足利義輝の弟で信長の力を頼ってきた足利義昭(1537〜97)を立てて入京し、義昭を将軍職につけて、全国統ーの第一歩を踏み出した。しかし、信長は足利義昭の勧める管領・副将軍への任官を辞退して幕府体制から一定の距離をおき、また朝廷に対しては、荒廃した内裏の修理を進めて尊王ぶりをアピールする一方、正親町天皇(在位1557〜86)の皇子誠仁親王(1552〜86)を形式上の養子とするなどして、伝統的な権威を自らの手中におこうとした。

信長の素顔

信長と対面したイエズス会宜教師たちによれば、信長は中背で華奢な体つきをしており、ひげが薄く、かん高い声のもち主であったという。睡眠時間は短く、酒を飲まず不潔や不整頓を極度に嫌い、果物の皮一枚を掃き忘れたがために信長に切られた下女もいたほどであった。自尊心が強く、大名諸侯をすべて見下し、家臣の進言にもほとんど耳を貸さなかったが、反面、身分の低い者とも気さくに話をするような一面ももっていた。信長は、霊魂や来世を信じない徹底した無神論者であったがこれについて宣教師の一人はつぎのような話を伝えている。かつて父織田信秀が危篤におちいったとき、信長は僧侶たちを呼んで病気回復の祈認を行わせた僧侶たちは口々に信秀の回復を保証したが、数日後、信秀は世を去ってしまった。そこで信長は僧侶たちを寺院に監禁し、「今度は自分たちの命について偶像に祈るがよい」といって、彼らを射殺してしまったというのである。のちに信長をあの激しい仏教弾圧に駆り立てたものはあるいは若き日のこの苦い思い出だったのかもしれない。

1570(元亀元)年、信長は姉川の戦いで近江の浅井長政(1545〜73)と越前の朝倉義景(1533〜73)の連合軍を破り、翌年には浅井・朝倉方に加担した比叡山延暦寺を焼打ちにし、強大な宗教的権威と経済力を誇った寺院勢力を屈伏させた(延暦寺焼打ち)。1573(天正元)年、信長によってしだいに権限を奪われつつあった足利義昭は、将軍権力の回復をめざして浅井・朝倉・武田の諸氏と結んで信長に反抗したが、武田軍が信玄の急死により進軍を中止したために利を失い、信長は浅井長政朝倉義景を討つとともに、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした(室町幕府の滅亡)。1575(天正3)年、信長は三河の長篠合戦で大量の鉄砲と馬防柵ばぼうさくを用いた画期的な戦法で、宿敵武田信玄の子武田勝頼(1546〜82)が率いる騎馬軍団に大勝し、翌年、近江に壮大な安土城を築き始めた。

安土城

安土城は琵琶湖岸の小山の上に築かれた平山城で、中央には7階建ての壮大な天守(天守閣)がつくられ、織田信長の居所とされた。天守の外壁や軒瓦には金箔が押され、内部には狩野永徳らに描かせた障壁画など数々の豪華な装飾がほどこされた。信長は築城と同時に城外に摠見寺そうけんじという寺も建立したが、信長は自らをその本尊と位置づけ、城下の人々に参拝させたという。信長は1579(天正7)年に岐阜城を子の信忠(1557〜82)にゆずって安土城に移ったが京都ににらみをきかせながら、しかも一定の距離をおいた安土の地は、信長の伝統的な権威に対する姿勢をよく示している。安土城は本能寺の変の際の混乱で焼失したが、その建築は近世城郭建築に大きな影響を与えた。

しかし、信長の最大の敵は石山本願寺を頂点にし、全国各地の真宗寺院や寺内町を拠点にして信長の支配に反抗した一向一揆であった。本願寺では第11代門主の顕如(光佐、1543〜92)が1570(元亀元)年、諸国の門徒に信長と戦うことを呼びかけて挙兵し、前後11年に及ぶ石山戦争が展開された。しかし信長は、1574(天正2)年、伊勢長島の一向一揆を滅ぼし、翌年には越前の一向一揆を平定して、ついに1580(天正8)年、石山本願寺を屈伏させ、顕如を石山(大坂)から退去させることに成功した(石山本願寺攻め)。約1世紀にわたり存続した加賀の一向一揆が解体したのもこのときである。

東本願寺と西本願寺

織田信長の石山本願寺攻めに際し、石山からの退去を決定した顕如に対し、長男の教如(1558〜1614)は徹底抗戦を主張して父顕如と対立した。その後、両者は和解したもののこの事件は教団内における教如の立場を微妙なものにした。本願寺は豊臣秀吉のときに京都堀川に移されたが(西本願寺)、顕如が死去すると教如は本願寺門主の座を弟の准如(1577〜1630)にゆずり、隠退した。その後、教如には徳川家康から京都七条烏丸に別の寺が与えられ(東本願寺)、ここに本願寺は東西両派にわかれることになった。現在、西本願寺は真宗本願寺派本山として俗に「お西」と呼ばれ、東本願寺は真宗大谷派本山として俗に「お東」と呼ばれている。

このようにして、信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、1582(天正10)年、甲斐の武田勝頼を天目山の戦いで滅ぼしてからわずか3カ月後、毛利氏征討に向かう途中、滞在した京都の本能寺で、家臣の明智光秀(1528?〜82)にそむかれて敗死した(本能寺の変)。

織田信長は組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ、優れた軍事指揮者として、つぎつぎと戦国大名を倒しただけでなく、伝統的な政治や経済の秩序、権威に挑戦してこれを破壊し、新しい支配体制をつくることをめざした。信長は、入京直後、全国一の経済力をもつ自治的都市として繁栄を誇った堺に高額の矢銭(軍用金)を要求し、堺がこれを拒否して反抗すると、翌年、堺を直轄領とするなどして、畿内の高い経済力を自分のもとに集中させた。

また、これまで交通の障害となっていた関所の撤廃を積極的に進め、安土の城下町には楽市令(楽市・楽座令)を出して来住した商工業者に自由な常業活動を認めるなど、新しい流通・都市政策をつぎつぎと打ち出していった。宗教政策では、延暦寺や一向一揆を制圧したほか、当時京都の町衆らの間に根強い勢力を保っていた日蓮宗に対しても、安土城下で浄土宗と論戦を行わせ(安土宗論)、そこでの敗訴を理由に激しい弾圧を加えるなど、仏教勢力には終始徹底した態度でのぞんだ。その反面、彼らから弾圧を受けていたイエズス会宣教師に対しては好意的な態度をとり、その布教活動を支援するとともに、南蛮貿易にも大きな関心を示した。

楽市令

つぎに示したのは1577(天正5)年6月織田信長が安土城下町に出したものである。

  • 当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸役・諸公事等、ことごとく免許の事。
  • 往還の商人、上海道(中山道)相留め、上下とも当町に至り寄宿すべし。(後略)
  • 普請免除の事。(後略)
  • 分国中徳政これを行うといえども、当所中免除の事。
  • 喧嘩口論并にに国質、所質·押売、宿の押借以下、ー切停止の事。

これは全13条のうち、1·2·3·8·10条を示したものであるが、座の特権否定、商人来住の奨励、土木工事への徴発免除、徳政への不安除去、治安維持の保障をそれぞれ示しており、このほか伝馬役、家屋税の免除、よそ者の差別待遇否定などの条項もあって、城下繁栄がそのねらいであったことが読みとれる。

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