中国革命と帝政運動 辛亥革命とロシア革命
1912年3月10日 宣統帝退位。袁世凱中華民国臨時大総統就任(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

辛亥革命とロシア革命

  • 辛亥革命:1912年1月、南京で中華民国の建国宣言。孫文が臨時大総統、宣統帝退位・清国滅亡。
  • ロシア革命:1917年11月、レーニンら社会民主労働党のボリシェヴィキ派(共産党)武装蜂起、臨時政府を倒して社会革命党左派とソヴィエトを基礎とする世界最初の社会主義政権樹立。

辛亥革命とロシア革命

革命の胎動 辛亥革命 辛亥革命と外国資本の進出地図
辛亥革命と外国資本の進出地図 ©世界の歴史まっぷ
日露戦争 後から第一次世界大戦 の始まるころ、東アジアでは大きな変動がおこっていた。強大な専制帝国を誇っていた清国 では、北清事変のころから、満州民族の王朝を戴く清国 を倒して漢民族による民族国家を建設しようとする革命が次第に活発となった。
革命運動の指導者となった孫文そんぶん (1866〜1925)は、日露戦争 における日本の勝利が明らかになった1905(明治38)年8月に中国同盟会を東京で結成し、民族の独立・民権の伸張・民生の安定のいわゆる三民主義を唱えて革命運動を進めた。1911(明治44)年10月の武漢における軍隊の暴動をきっかけに中国各地で反乱が勃発し、1912(明治45)年1月1日、南京で中華民国の建国が宣言され、孫文 が臨時大総統に推された。清国 政府は時局収拾の力をまったく失い、同年2月、幼少の宣統帝 は退位して清国 は滅亡した。これが辛亥革命 である。しかし、こののちも国内では軍閥が割拠し、その圧力のもとで、孫文 を退け北京で初代大総統となって政権を握った袁世凱えんせいがい (1859〜1916)は、革命派の国民党(中国同盟会の後身)を弾圧し、孫文 は翌1913年、第二革命をおこしたが失敗して日本に亡命した。その後も中国国内では混乱が続き、外からは列強の圧迫を受け、中華民国の前途は多難をきわめた。 ー方、ロシアでも日露戦争中 からツァーリ(皇帝)の圧政に反抗する気運が高まり、日露戦後 の1905(明治38)年10月に第ー次革命がおこり、翌年、憲法か制定され国会が開かれたが、その後も革命運動はますます活発となった。そして 第一次世界大戦 の勃発以来、激しいインフレーションがおこり、労働者・農民の生活は圧迫され、社会不安が高まった。1917(大正6)年3月、首都ペトログラード(現、サンクト=ペテルブルク) で労働者のゼネストかおこり、鎮圧に出動した軍隊もかえってこれに同調するに及んで、ついに革命に発展し、帝政は倒れ、自由主義者を中心とする臨時政府が成立した( ロシア二月革命 )。
対ソ干渉戦争 赤軍 ロシア十月革命 ソヴィエト政権と戦時共産主義 革命期のロシアと対ソ戦争地図
革命期のロシアと対ソ戦争地図 ©世界の歴史まっぷ
長い間ペテルブルクと呼ばれたが、第一次世界大戦中にドイツ風の呼称を嫌って、ロシア風のペトログラードに改称された。ソ連時代にはレーニンの名にちなんでレニングラードとなったが、1991年、ソ連の崩壊とともに旧名のサンクト=ペテルブルクが復活した。
革命はさらに進んで、同年11月には、レーニン (Lenin.1870〜1924)らを指導者とする社会民主労働の ボリシェヴィキ 派(のちの共産党)が武装蜂起し、臨時政府を倒して社会革命党左派とともに、ソヴィエト を基礎とする世界最初の社会主義政権を樹立した( ロシア十月革命 )。 これがいわゆるロシア革命 である。ソヴィエト政府は、1918(大正7)年3月、独墺両国と単独に平和条約(ブレスト=リトフスク条約)を締結し、連合国陣営から脱治した。ボリシェヴィキ派は同内では武力により憲法制定議会を解散し、社会命党など反対派を弾圧して、一党独裁体制を確立していった。
Soviet はロシア語で会議の意味で、労働者・兵士・農民ソヴィエトによるプロレタリア独裁体制=ソヴィエト制度がつくられた。
61.列強の国際対立の激化
61.列強の国際対立の激化流れ図 ©世界の歴史まっぷ
62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図
62.アジア諸国の改革と民族運動流れ図 ©世界の歴史まっぷ