近代文学
近代文学
明治初期は、江戸文学の系統をひいた仮名垣魯文(1829〜94)の『安愚楽鍋』などの、いわゆる戯作文学が盛んであった。儒教的な文学観が強く残っていたが、文明開化時代に流行した翻訳小説とともに、新聞や出版業の発達によって、文学作品はしだいに広く国民の間で読まれるようになった。
1880(明治13)年前後から、自由民権運動の発展につれ、その思想を宣伝し、国民を啓蒙するための政治小説が盛んになった。矢野竜渓(文雄)の『経国美談』、東海散士(1852〜1922)の『佳人之奇遇』、末広鉄腸(重恭、1849〜96)の『雪中梅』などがその代表作である。
1880年代のなかごろになると、西洋の近代文学の影響のもとに、文学に芸術としての独自の価値を認めようとする考えもおこってきた。先駆けとなったのは、1885(明治18)年の坪内逍遥(1859〜1935)が書いた『小説神髄』である。彼は、それまでの勧善懲悪的小説を排して、小説は人生のありさまを写すものであることを唱え、写実小説を説き、『当世書生気質』を発表してそれを実践した。ついで二葉亭四迷(1864〜1909)は言文一致体を説き、『浮雲』を著して当時の社会に生きる人間の苦悩を描いたが、まだ十分には世に受け入れられなかった。
1890年代の文壇の主流を占めたのは、『多情多恨』『金色夜叉』などを書いた尾崎紅葉(1867〜1903)を中心とする硯友社のグループであった。彼らは雑誌『我楽多文庫』(1885年創刊)によって風俗写実風の小説を盛んに発表し、文芸小説を一般庶民に広めた。広津柳浪(1861〜1928)·泉鏡花(1873〜1939)らがこの一派からでている。
人間の自由な感情を重視するロマン主義も、1893(明治26)年に創刊された『文学界』を中心に、しだいに大きな文芸運動となった。その中心は北村透谷(1868〜94)·島崎藤村(1872〜1943)らで、彼らは文芸の自立を主張し、それを功利的に考えることに反対するとともに、硯友社文学の卑俗性を鋭く批判した。とくに、藤村は『若菜集』(1897)を刊行して青年の清新な理想と情熱をうたいあげ、詩歌史上にー画期をつくった。また同じころでた女流作家樋ロ一葉(1872〜96)も、『たけくらべ』『にごりえ』などに独特の美しい筆致で庶民の哀歓を描いた。ロマン主義はその後、与謝野寛(鉄幹、1873〜1935)·与謝野晶子ら『明星』派の歌人に受け継がれ、しだいに奔放な官能的作風を示すようになり、高山樗牛は本能的・感覚的快楽に重きをおく美的生活論者となった。また、国木田独歩(1871〜1908)は個人的な内面生活の探究に傾き、自然主義への道を開いた。
おもな文学作家と作品
作家名 | 作品名(年代) |
---|---|
成島柳北 | 柳橋新誌(59) |
仮名垣魯文 | 安愚楽鍋(71) |
矢野龍渓 | 経国美談(83) |
東海散士 | 佳人之奇遇(85) |
末広鉄腸 | 雪中梅(86) |
外山正一 | 新体詩抄(82)(詩) |
坪内逍遥 | 小説神髄(85)当世書生気質(85)(評) |
二葉亭四迷 | 浮雲(87)あひびき(88)(翻)平凡(07) |
山田美妙 | 夏木立(88)胡蝶(89) |
尾崎紅葉 | 多情多恨(96)金色夜叉(97) |
幸田露伴 | 五重塔(91) |
樋口一葉 | にこりえ・たけくらべ(95) |
森鴎外 | 舞姫(90)即興詩人(92)(翻) |
島崎藤村 | 若菜集(97)(詩)破戒(06)夜明け前(29) |
上田敏 | 海潮音(05)(詩・翻) |
与謝野晶子 | みだれ髪(01)(詩) |
高山樗牛 | 滝口入道(94) |
土井晩翠 | 天地有情(99)(詩) |
薄田泣菫 | 白羊宮(06)(詩) |
北原白秋 | 邪宗門(09)(詩) |
川上眉山 | うらおもて(95) |
泉鏡花 | 高野聖(90) |
徳冨蘆花 | 不如帰(98)自然と人生(00) |
国木田独歩 | 武蔵野・牛肉と馬鈴薯(01)運命論者(03) |
島村抱月 | 文芸上の自然主義(08) |
長谷川天渓 | 自然主義(08)(評) |
田山花袋 | 蒲団(07)田舎教師(09) |
正宗白鳥 | 何処へ(08) |
徳田秋声 | 徽(11)あらくれ(15) |
石川啄木 | 一握の砂(10)(詩)悲しき玩具(12)(詩)時代閉塞の現状(10)(評) |
夏目漱石 | 吾輩は猫である(05)草枕・坊っちゃん(06) |
長塚節 | 土(10) |
(評):評論
(翻):翻訳
詩壇では1880年代初めに、外山正ー(1848〜1900)·矢田部良吉(1851〜99)らが『新体詩抄』を著して新体詩運動を展開し、歌壇では1890年代末に、正岡子規(1867〜1902)が『万葉集』の伝統に立ち返り、写生的作風で短歌革新を唱え、門下から伊藤左千夫(1864〜1913)らを生んだ ❶ 。子規は俳句の面でも写生風を唱え、1897(明治30)年の雑誌『ホトトギス』の創刊にも協力し、これはのちに門下の高浜虚子(1874〜1959)に引き継がれた。
こうして日露戦争後の文芸思潮の中心はロマン主義から自然主義へと移っていった。散文に転じた島崎藤村が『破戒』『春』『家』を発表し、田山花袋(1871〜1930)が『蒲団』『田舎教師』を書き、自然主義文学の方向が定まった。それは、あからさまな現実描写と内面の真実を重要視し、個人的体験に基づき身辺の暗い現実を眺めるという私小説への道をとった。長塚節(1879〜1915)·徳田秋声(1871〜1943)らもこの流れをくむものである。
自然主義
19世紀後半のフランスを中心におこった文芸思潮で、ゾラ( Zola, 1840〜1902)やモーパッサン( Maupassant, 1850〜93)によって推し進められた。それは自然科学的研究方法を文学に応用し、人間と現実の社会的環境の暗黒面を分析しようとするものであった。しかし、日本の自然主義文学にあってはそうした社会性は薄く、もっぱら、個人の経験に頼る私小説的性格が強かった。
詩人石川啄木(1886〜1912)は、「時代閉塞の現状」を書いて明治末期の八方ふさがりの社会的現実に厳しい批判を投げかけ、自然主義を乗り越えようとしたが、貧困のうちに若くして死んだ。
こうした文壇の流れにあって独自の存在を示していたのは、森鴎外(1862〜1922)と夏目漱石(1867〜1916)である。鴎外は初め、『舞姫』などのロマン主義的な作品を発表して名声をあげ、雑誌『スバル』によって創作・文学理論活動を行ったが、のちにはしだいに歴史小説に傾いた。また漱石は、『吾輩は猫である』で作家生活に入り西欧の近代的個人主義を踏まえて社会の俗悪さに鋭い批判の目を向けたが、『心』『道草』『明暗』など晩年の作品では醜い人間のエゴイズムとの対決から、いわゆる“則天去私”という東洋的な悟りの倫理が追求されている。