都市化と国民生活の変化
『ほろ酔ひ』(部分/小早川清画/ホノルル美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

都市化と国民生活の変化

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都市化と国民生活の変化

1923(大正12)年9月1日の関東大震災後、遷都論もあったが、第2次山本権兵衛内閣は、幹線道路の建設・区画整理などを軸に、東京を再建。江戸情緒はほとんど一掃され、東京の住宅地帯は近郊に広がり、1920(大正9)年に人口220万弱だった東京市は、1932(昭和7)年には近郊の町村を合併し、500万人を超える「大東京」となった。

都市化と国民生活の変化

大正年間、とくに第一次世界大戦後になると、日本経済の飛躍的な発展、工業化の推進を背景として、都市化大衆化が社会のいろいろな局面で現れ始めた。1903(明治36)年には4540万人だった日本内地の人口は、1925(大正14)年には5974万人に達したが、農業人口はあまり増加せず、人口増加分はもっぱら都市の第2次・第3次産業に吸収された。この結果、明治30年代前半には有業人口の約3分の2を占めていた第1次産業(農林水産業)人口は、大正末期には50%程度に比率を低下させた。

都市への人口集中もはっきりと現れ、1903(明治36)年には人口5万人以上の都市は25(植民地を除く)、その人口は合わせて555万人(内地人口の12%)だったのが、1925(大正14)年には、それが71都市、1213万人(内地人口の20%)に増加した。

東京をはじめ全国の諸都市では、官公庁・公共建築物・会社などを中心に、明治時代以来の赤煉瓦れんが造に加えて、鉄筋鉄骨コンクリートのビルディングが建設され、個人の住宅にも、洋風のいわゆる文化住宅が盛んに建てられた。都市ではガスや水道設備がかなり普及し、電灯は都市ばかりでなく農村でも広く用いられるようになった。

関東大震災と東京の復興

1923(大正12)年9月1日、関東地方ー帯はマグニチュード7.9の大地震に襲われ、東京では市内百数十カ所から火災が発生し、本所・深川などの下町は90%以上が焼失した。東京、横浜など関東地方南部を中心に各地で、死者・行方不明者10万人以上、被害世帯約57万戸、罹災りさい者約340万人を出すという空前の惨害となった。大震災後、一部には遷都論もあったが、政府(第2次山本権兵衛内閣)は後藤新平内相を帝都復興院総裁に任命して、東京の復興にあたらせた。後藤の東京復興計画はあまりにも大規模で、ぼう大な経費を必要としたため、立憲政友会など各方面からの反対でかなり縮小されたが、幹線道路の建設・区画整理などを軸に、東京は装いを新たにして再建された。これを機会に江戸情緒はほとんど一掃され、東京の住宅地帯は近郊に広がった。震災で減少した人口も再び急増し、1920(大正9)年に人口220万弱だった東京市は、1932(昭和7)年には近郊の町村を合併し、人口が500万人を超える「大東京」となった。

また横浜も大震災により市街地の多くを焼失するという壊滅的打撃を被ったが、その復興もめざましく、40万人以下に減った人口が、震災の10年後には70万人近くに増加した。

原内閣と政党政治 パリ講和会議
原敬内閣 ©世界の歴史まっぷ
高橋是清内閣
高橋是清内閣 ©世界の歴史まっぷ
第2次山本権兵衛内閣
第2次山本権兵衛内閣 ©世界の歴史まっぷ

都市と都市を結ぶ鉄道路線は、原・高橋両内閣におけるローカル線拡張計画などを通じて全国的に広がった。また、大都市の近郊に住宅地帯が広がるとともに、通勤用の郊外電車が発達した。そして大正末期以降、大都市の中心部ばかりでなく、郊外電車のターミナル駅につぎつぎと百貨店(デパート)が開店し、大衆消費時代の先駆けとなった。市街地の交通機関としては、市街電車のほか、明治後期に日本に輸入された自動車が、大正時代になると新しい交通機関として利用され、とくに乗合自動車(バス)が市民の足として盛んに使われるようになり、タクシーも現れた。また、昭和初期になると東京には地下鉄が開通し都心を結ぶ新しい交通機関となった。なお、明治末期に日本の空を初めて飛んだ飛行機は、主に軍用として発達したが、1920年代後半には郵便輸送や旅客輸送用の定期航空路も開設された。しかし、利用者はまだごく限られた人たちだけであった。

都市を中心に、事務系統の職場で働く俸給生活者(サラリーマン)が大量に出現したが、そうした職場へ女性も進出するようになり、いわゆる職業婦人がめだち始めた。女性の洋装化も進み、大正末期から昭和初期には、時代の先端をいく洋装洋髪の若い女性(いわゆるモガ、 modern girl )の姿が、大都市の新しい風俗となった。

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こうした状況のなかで、さまざまな社会問題(労働問題・失業救済など)や都市問題(交通・住宅問題など)が取りあげられるようになった。政府が内務省に社会局や都市計画局をおいてこれらの問題と取り組み、職業紹介法・健康保険法・借地借家法などを制定したのも、1920年代前半のことであった。

サラリーマンの生活

大正末期大学や専門学校の卒業生は、おおむね官吏や会社勤めの俸給生活者(サラリーマン)となった。初任給(月額)は大学卒が50〜60円だった。重工業部門の男性労働者の平均賃金が日給2円50銭、大工が3円50銭程度だったから、ホワイトカラーとブルーカラーの給与の差は、ほとんどなくなった。なお、女性(職業婦人)の平均月給は、タイピスト40円、電話交換手35円、事務員30円程度だったという。当時の物価は、米1升(約1.5kg)50銭、ビール1本35銭、うなぎの蒲焼30銭、タクシーの市内料金1円均ー(いわゆる円タク)、東京、大阪間の鉄道運賃6円13銭(3等、背通列単)、郵便料金では封書3銭、葉書1銭5厘、新聞講読料月極め80銭〜1円といったところだった。

1925(大正14)年、建坪18坪(約59㎡)・木造2階建て・土地25坪(約83㎡)つきの小住宅108戸を、大阪市が分譲した。頭金420円、毎月32円で15年5カ月の月賦という条件だったが、申込みが殺到し、32倍の競争率になった。応募者の70%以上がサラリーマンだったという。

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