開港とその影響
貿易は、1859(安政6)年から横浜・長崎・箱館の3港で始まった。輸出入品の取引は、居留地において外国商人と日本人の売込商との間で、銀貨を用いて行われた。輸出入額では横浜が、取引の相手国ではイギリスが圧倒的に多かった。輸出品は、生糸が80%に及び、ついで茶・蚕卵紙・海産物などの半製品・食料品が多く、輸入品は、毛織物·綿織物などの繊維製品が70%を超え、ついで鉄砲・艦船などの軍需品が多かった。
開港とその影響
貿易は、1859(安政6)年から横浜・長崎・箱館の3港で始まった。輸出入品の取引は、居留地において外国商人と日本人の売込商と呼ばれた輸出品を売り込む貿易商や引取商と呼ばれた輸入品を買い取る日本商人との間で、銀貨を用いて行われた。輸出入額では横浜が、取引の相手国ではイギリスが圧倒的に多かった。日本からの輸出品は、生糸が80%に及び、ついで茶・蚕卵紙・海産物などの半製品・食料品が多く、輸入品は、毛織物·綿織物などの繊維製品が70%を超え、ついで鉄砲・艦船などの軍需品が多かった。
開国当時の貿易額・貿易品
初めは輸出が多く、まもなく輸入超過となったが、貿易額は全体として急速に増大した。それに刺激されて物価が上昇する一方、国内産業と流通に大きな変化が現れた。輸出品の大半を占めた生糸を生産する製糸業などでは、マニュファクチュア経営が発達したが、機械で生産された安価な綿織物の大量輸入が、農村で発達していた綿作や綿織物業を強く圧迫していった。
さらに流通面では、輸出商品の生産地と直接結びついた在郷商人が問屋を通さずに直接商品を開港場に送ったので、江戸をはじめとする大都市の問屋商人を中心とする特権的な流通機構はしだいに崩れ、さらに急速に増大する輸出に生産が追いつかないため物価が高騰した。そこで幕府は、従来の流通機構を維持して物価を抑制するために貿貿易の発展易の統制をはかり、1860(万延元)年、雑穀・水·油・蝋・呉服・生糸の5品は、横浜直送を禁止し、必ず江戸の問屋を経て輸出するように命じた(五品江戸廻送令)。しかし、在郷商人の抵抗と、条約に定められた自由貿易を妨げる措置であるとする列強の抗議にあい、効果はあがらなかった。
また、金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。そして、外国人を襲う事件が相つぎ、1860(万延元)年、ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケン(Heusken, 1832〜61)が江戸の三田で薩摩藩の浪士に斬り殺され、さらに翌年、高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受け館員が負傷した東禅寺事件、1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦村で、江戸から帰る途中の島津久光(1817〜87)の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件、さらに同じ年の暮れ、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を高杉晋作(1839〜67)·久坂玄瑞(1840〜64)らが襲って焼いたイギリス公使館焼打ち事件などがおこっている。生麦事件は、のちに薩英戦争の原因となった。1861(文久元)年には、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に停泊し、租借地を要求する対馬占拠事件がおこった。対馬の半植民地化の危機に島民が激しく抵抗し、イギリスの抗議もありロシアは退去した。
幕府は、このような開港による物価謄貴と攘夷運動を恐れ、安政五カ国条約に盛り込まれた江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港期日の延期を交渉するため、1862(文久2)年に遣欧使節を派遣し、イギリスとロンドン覚書を結ぶなどして、開市・開港を延期した。