院政期の社会
勅旨に強訴する興福寺僧兵(天狗草紙・模本)新詳日本史より

3. 院政期の社会

> >


院政期の社会

国司の滞納により収入が途絶えた大寺院は経済的基盤を荘園に求め、僧兵を組織して法によらずに実力で争い、荘園・寺院の拡大を目指した。貴族の力では対抗できず、武士を用いて警護や鎮圧にあたらせたため、武士の中央政界への進出を招くことになり、社会の担い手は武士の手に移っていった。

院政期の社会

この頃には知行国ちぎょうこくの制度が広まった。この制度は、上級貴族を知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させて経済的な奉仕を求めるもので、知行国主はその子弟や近親者を国守に任じ、目代を派遣して国の支配を行った。このころ貴族の俸禄支給が有名無実化し、貴族の経済的収益を確保するために生み出されたものである。また院自身が国の収益を握る院分国の制度も始まった。

院近臣

院近臣の藤原顕季ふじわらのあきすえと源氏の武士源義光みなもとのよしみつの所領争論があったとき、顕季は自分の方に理があるのに、白河上皇が何の成敗も下さないことを不満としていた。ある日、機会をみてその点を上皇に尋ねたところ、上皇は顕季に対し、荘園を一つ欠いたところで困ることはあるまい、しかし義光は「只一所懸命」の地だという、道理でのみ裁許したならば、「子細を弁ぜざる武士」が何をするかわからん。と思い猶予していたのだと諭したという。
上皇の配慮に感激した顕季は、義光を呼び出し、自分は荘園もあり、知行国もあるのに、貴殿は一所を頼みとしていると聞くゆえ、この所領は与えよう、と述べたところ、義光は二字(名簿)を提出して従者になったという。上皇が近臣や武士に知行国・荘園などを与えて奉仕させていた様子がよくわかるエピソードである。

このため、公領はあたかも院や知行国主・国司の私領のようになり、それが院政を支える基盤となったが、院政のもう一つの基盤が大量の荘園である。とくに白河上皇の後半期から鳥羽上皇の時代にかけては、荘園の寄進が院に集中したばかりでなく、有力貴族や大寺院への荘園寄進が増加した。寄進を受けた上皇は、それらの荘園を近親の女性に与えたり、寺院に寄進したりした。

例えば、鳥羽上皇が皇女八条院はちじょういんに譲った荘園群(八条院領)は平安時代末に約100カ所、後白河法皇が長講堂ちょうこうどうに寄進した荘園群(長講堂領)は鎌倉時代初めに約180カ所の多数にのぼった。

これらの荘園群は伝領されて、鎌倉時代末期には八条院領が大覚寺統の、長講堂領が持明院統のそれぞれの経済的基盤となった。

鳥羽法皇の時代からは、不輸・不入の権をもつ荘園がさらに一般化し、不入の権の内容も警察権の排除にまで拡大されて、荘園の独立性はいっそう強まった。

女院

八条院は鳥羽法皇と美福門院びふくもんいんの両親から多くの荘園をゆずられて大荘園領主になったのであるが、女院とは天皇の后や娘に院号が与えられ、院と同様に特別な待遇が与えられたものである。その始まりは一条天皇の生母の東三条院ひがしさんじょういんであったが、院政時代になると多くの院の后や娘が女院の待遇を与えられ、大荘園領主として華麗な貴族文化の中心的位置を占めるようになった。

なお大寺院では、国家から支給されていた諸国の封戸ふこにみあう収入が国司の滞納によって途絶え、経済的な基盤を荘園に求めるようになっていたことから、争って数多くの荘園を所有したり、地方の寺院を支配下におき、さらに下級の僧侶を僧兵ぞうへいとして組織した。僧兵は多くが地方武士の出身であったから、武士とかわらぬ武力を発揮し、法皇の仏教へのあつい信仰を背景に、国司と争ったり、神木しんぼく神輿しんよを先頭に立てて朝廷に強訴ごうそを行い、要求を通そうとした。

院政と平氏の台頭
勅旨に強訴する興福寺僧兵(天狗草紙・模本)大寺院は多くの荘園を保有し、しばしば国司や他の寺社と対立した。このため、地方武士出身の下級僧侶を僧兵として組織した。特に興福寺・延暦寺の僧兵は、院・朝廷に強訴を行い、力ずくでも主張を通そうとした。白河上皇は「源平などの武士を北面の武士に登用したので、武士が中央政界に進出する契機となった。新詳日本史より

なかでも興福寺の僧兵は、春日神社の神木であるさかきを捧げて京都に入って強訴したが、この神社は藤原氏の氏神であり、興福寺は氏寺であったから、摂関家もこれにはうかつに手が出せなかった。また延暦寺では日吉神社の神輿をかついで強訴したが、地方に大きな勢力を築いた延暦寺は京都のすぐ近くにあっただけに、多大な影響を与えた。この興福寺・延暦寺を南都なんと北嶺ほくれいという。

かつて鎮護国家を唱えていた大寺院のこうした行動は、権力者が各種の私的な勢力に分裂し、法によらずに実力で争うという院政期の社会の特色をよく表している。そうしたときに、神仏の威を恐れ、無気力となっていた貴族の力では、大寺院の圧力に抗することはできず、武士を用いて警護や鎮圧にあたらせたため、武士の中央政界への進出を招くことになった。

地方では各地の武士がたちを築き、一族や地域の結びつきを強めるようになっていた。諸国の国衙の行政事務を担った在庁官人も多くが武士となり、国司が現地に赴任しなくなったこともあって、諸国の文化の中心は国司の館から武士の館に移っていき、地方の社会の担い手も完全に武士の手に移っていった

なかでも源義家みなもとのよしいえの去った後の奥羽地方では、陸奥の藤原清衡ふじわらのきよひらの支配が強大となった。清衡はやがて平泉ひらいずみを根拠地として、奥州と出羽の2国に勢力を伸ばし、金や馬などの産物の富によって摂関家や院と関係をもち、京都の文化を移入するとともに、北方の地との交易で独自の文化を育てて富強を誇った。その結果、子藤原基衡ふじわらのもとひら・孫藤原秀衡ふじわらのひでひらと3代100年にわたる奥州藤原氏おうしゅうふじわらしの基礎を築いたのである。

こうして院政期には、私的な土地所有が展開し、院や大寺社、武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分化していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まった。それらを特徴とする中世社会はこの院政期に始まったのである。

広告