人口の増加と伝染病
幕末の開国とともにコレラも海外からもち込まれ明治前期に大流行した。まだ伝染病の知識や衛生の考え方が未発達で、庶民はコレラは外国人が井戸に毒を入れたから、患者を隔離するのは肝をとって売るためだなどの流言が飛びかった。
人口の増加と伝染病
産業化の進行とともに明治初期に約3300万人だった日本の人口は急速に増加し、明治末期には約5200万人(植民地を除く)に達した。産業化の影響で、とりわけ都市人口の増加が目立った。出生率は上昇を続け、衛生環境や栄養状態の改善、医療技術とりわけ伝染病対策の進歩などにより、死亡率は少しずつ低下した。
とはいえ、都市の生活環境や工場の労働環境は決して良好なものではなく、伝染病などによる死亡者は、かなりの数にのぼった。とりわけ大きな脅威だったのは、幕末の開国とともに海外からもち込まれ、明治前期、しばしば日本国内でも大流行したコレラであった。1879(明治12)年と1886(明冶19)年の大流行では、それぞれ年間10万人以上の死者を出した。伝染病についての知識や衛生の考え方がまだ未発達だったので、庶民の間には、コレラが広まるのは外国人が井戸に毒を入れたからだとか、患者を隔離するのは肝をとって売るためだとか、誤解に基づくさまざまな流言が飛びかった。そのため、警察力も動員した患者の強制隔離措置や消毒に反対する農民騒動がおこり、隔離や消毒にあたっていた医者や役人が群衆に襲われたりした。当時、コレラ患者の死亡率はきわめて高く、避病院(隔離用の医院・病棟)に収容された患者の大半は死亡したので、患者の家族や関係者はこうした措置に強く抵抗したのである。しかし明治後期には、港での検疫の強化、医療·衛生設備の改善、衛生思想の普及などにより、コレラの死者は激減した。
その反面、産業化の進行とともに、肺結核による死者は、かえって増加した。1900(明治33)年には年間約7万2000人弱だった肺結核及び結核性疾患による死者は、1912(明治45)年には、約11万4000余人と約1.6倍に増えた(この間の人口増加は約1.16倍)。このように肺結核は、とくに若者にとって、死亡原因のうちで最も高い比率を占めるにいたった。