大陸文化の受容
朝鮮半島や中国との盛んな交渉によって、鉄器の生産、須恵器と呼ばれる新しい焼き物の生産、機織り、金・銀・金銅・銅などの金属工芸、土木などの新技術が主として朝鮮半島からの渡来人によって伝えられた。
ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶部、陶作部、錦織部、鞍作部などと呼ばれる技術者集団に組織し、各地に居住させたので、それらの技術は広く日本列島の各地に広がった。
大陸文化の受容
こうした朝鮮半島や中国との盛んな交渉によって、鉄器の生産、須恵器と呼ばれる新しい焼き物の生産、機織り、金・銀・金銅・銅などの金属工芸、土木などの新技術が主として朝鮮半島からの渡来人によって伝えられた。
ヤマト政権は、彼らを韓鍛冶部、陶作部、錦織部、鞍作部などと呼ばれる技術者集団に組織し、各地に居住させたので、それらの技術は広く日本列島の各地に広がった。
また、文字すなわち漢字の使用も始まり、漢字の音をかりて倭人の名前や地名を書き表わすことができるようになった。
ヤマト政権のさまざまな外交文書をはじめ、出納などの記録の作成にあたったのも、史部などと呼ばれた渡来人であった。
『古事記』『日本書紀』にも西文氏の祖とされる王仁、東漢氏の祖とされる阿知使主、秦氏の祖とされる弓月君らの渡来の説話がいずれも応神天皇のときのこととして物語られている。
これらの諸氏の渡来が応神天皇の時期までさかのぼるかどうかは明らかではないが、こうした渡来人の渡来が5世紀初頭前後に始まることは須恵器の初現年代などからも疑いない。
このほか、6世紀には百済から渡来した五経博士により儒教が伝えられたほか、医・易・歴などの学術も受け入れられ、また仏教も百済からもたらされた。
日本にもたらされた仏教は、西域・中国・朝鮮半島を経由して伝えられた北方系の北方仏教(大乗仏教)である。
百済の聖明王(聖王、明王とも)が欽明天皇に仏像・経典などを伝えたとされるが、その年代については、『日本書紀』は552年とし、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などは538年とするが、後者をとる研究者が多い。
また、8世紀初めにできた歴史書である『古事記』や『日本書紀』のもとになった『帝紀』(大王の名・続柄・宮の所在・妃と子の名、陵の所在などをまとめたもの)や『旧辞』(朝廷に伝えられた説話・伝承)も6世紀には成立していたと考えられている。
日本語表記の始まり
埼玉県稲荷山古墳出土の辛亥銘鉄剣は、その銘文から辛亥年(471年)につくられたものと考えられている。
鉄剣の表裏に金象眼115文字を記したもので、同時代の文献史料のまったくない5世紀にあっては、ほぼ同時期の熊本県江田船山古墳出土の鉄刀銘とともに重要な同時代史料である。
銘文の大意は、この剣をつくらせたヲワケの祖先オホヒコからヲワケにいたる8代の系譜とヲワケの一族が代々杖刀人(大刀をもって大王の宮を護る人)の首として大王に仕えてきた由来を記し、獲加多支鹵大王の朝廷が斯鬼宮にあったとき、自分は大王が天下を治めるのを助けたこと、この練りに練ったよく切れる刀をつくって、自らが大王に仕えまつる由来を記す、というものである。
このヲワケを稲荷山古墳の被葬者、すなわち武蔵の豪族ととらえるか、『日本書紀』のオホヒコ系譜に連なる、例えば安倍氏のような、中央にあって地方豪族の子弟からなる杖刀人を束ねた中央豪族ととらえるか2説が対立している。
ただ、ここにはヲワケ・オオヒコ・ワカタケルなどの人名やシキといった地名が、のちの万葉仮名と同じように漢字の音をかりて表記されていることが注目される。
自ら文字をつくり出さなかった倭人は、こうして日本語を漢字によって表記する術を獲得していった。
ただし、この時期にこうした文章をつくり、また書いたのが渡来人であったことは、江田船山古墳出土の銀象眼鉄刀の銘文に「書く者は張安也」と記されていることからも明らかである。
藤原鎌足は百済王子・豊璋だった?
騎馬民族征服王朝説
1949(昭和24)年に、東洋考古学者の江上波夫が提起した学説で、4世紀後半ころ、東北アジア系の遊牧騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入し、統一国家を樹立したとするもの。
この説は、前半期の古墳文化が馬具などをまったくもたない農耕民族的なものであるのに対し、後半期の古墳文化が多数の馬具や金銅製の装身具などを伴う騎馬民族的・王侯貴族的なものに大きく変化することを出発点に提起されたもの。
弥生時代以来の農民的な基層文化の上に、ツングース系の北方騎馬民族が日本列島に渡来して打ち立てた王朝が天皇家を中心とする「大和朝廷」にほかならないとする。
確かに、前期の古墳にはまったくみられなかった馬具が、中期の5世紀になると古墳の副装品のなかにみられるようになり、前期にはみられなかった乗馬の風習や騎馬文化が急速に普及したことを物語っている。
また、中期には新しく朝鮮半島の影響により成立した横穴式石室が古墳の埋葬施設として登場し、後期には古墳の最も一般的な埋葬施設となり、さらに中期には須恵器と呼ばれる朝鮮半島系の土器の生産も開始される。
ただそうした馬具や横穴式石室の普及、あるいは須恵器生産などは、5世紀初め以来、約100年の間にしだいに進展してきたもので、古墳時代の前半期と後半期の古墳文化の間に革命的な変化を認め、その背景に騎馬民族の渡来、征服などを想定するのは困難である。むしろ、4世紀後半以来の高句麗の南下に伴う朝鮮半島南部の戦乱に倭国もかかわり、その結果、こうした大きな変化が生じたと考えるべきであろう。
なおこの戦乱の影響で、多数の渡来人が日本列島に渡り、日本列島の社会や文化にきわめて大きな変化を及ぼしたことは正しくとらえなければならない。
その後の倭国が中国を中心とする東アジアの文明を短期間に受容し、7世紀後半には強力な中央集権的古代国家を打ち立てることができたのは、倭人が絶えず多くの渡来人を受け入れ、新しい先進的な文化を受容する能力を常に保持していたからにほかならない。