商業の展開
浮絵駿河町呉服屋図(歌川豊春画/三重県総合博物館蔵)画像出典:三重県総合博物館 

商業の展開

> >


Previous Post

Next Post

商業の展開

越後屋は、三井高利が1673年に江戸に開いた服屋で、1683年には両替商もおこなった。従来の呉服商が「屋敷売(訪問販売)」で「かけ売り(付け)」が当たり前であった当時、「現金かけ値なし(現金払い)」や「店前売」「正札売(定価売)」といった薄利多売の新商法により、財をなした。1904年三越呉服店(百貨店)として発展した。

商業の展開

初期豪商

江戸時代の初期豪商は、朱印船貿易家糸割符いとわっぷ仲間の商人、あるいは呉服の御用達商人銀座商人など幕府と結びついた特権的商人たちで、船や蔵をもって巨大な富を形成した。船は、遠隔地間の価格差を利用して利益を上げるときに不可欠な道具であり、蔵は、季節間の価格差を生むために商品を保存しておくのに必需な施設であった。

ある豪商の商売

近世初頭では、米価は地域によって異なり、例えば1595(文禄4)年、若狭小浜のある豪商は、津軽で米2400石を金10枚で購入し、これを自分の船で京都に運び、金1枚30石の相場(8倍の値段)で売りさばいた。初期豪商と呼ばれた商人たちは、このような地域による商品価格差が大きい時代に巨利を得たものであった。

しかし鎖国によって海外との交易が制限されると、初期豪商の国際的な活動の舞台は失われた。また、陸上・水上交通の整備による全国市場の形成に加えて、生産力の上昇は商品流通量を増加させ、国内の商品価格の地域差はあまりみられなくなった。それは米価でいえば、中央も地方も価格が連動するようになったため、前述したように巨利は得られなくなった。ほかの商品も同様で、以前のように限られた特産地でのみ生産できた商品も、各地で多量に生産されるようになると、商品の稀少性はなくなり、単品のもうけは少なくなった。こうして、米や諸商品の価格が大きな地域差をもたなくなった元禄期ころには、もはや初期豪商と呼ばれた人々は衰退し、単なる廻船業や商人にとどまることになった。

問屋商人

三都の問屋商人たちも元禄期ころを境にして、それまでの稀少性のある高価な少量の商品を売買する商法では経済的に行き詰まり、大量の商品を多売することで利益をあげる商法に切りかえていった。

商業の展開
浮絵駿河町呉服屋図(歌川豊春画/三重県総合博物館蔵)画像出典:三重県総合博物館 

越後屋は、三井高利みついたかとしが1673年に江戸に開いた呉服屋で、1683年には両替商もおこなった。従来の呉服商が「屋敷売(訪問販売)」で「かけ売り(付け)」が当たり前であった当時、「現金かけ値なし(現金払いとする)」や「店前売たなさきうり」「正札売しょうふだうり(定価売)」といった薄利多売の新商法により、財をなした。1904年三越呉服店(百貨店)として発展した。 山川 詳説日本史図録より

大量な商品流通の時代に素早く適応できたのが、越後屋(三井)を代表する新興商人たちであった。彼ら問屋商人は仲間という同業者の団体をつくり、独自の法(仲間掟)を定めて営業権の独占をはかった。江戸の十組問屋や大坂の二十四組問屋は、江戸・大坂間の大量な荷物運送の安全と流通の独占をめざして結成された、仲間の連合組織である。

幕府はこの仲間を当初は認めなかったが、18世紀以降になると、運上・冥加うんじょう・みょうがという営業税の納入を条件(運上・冥加の営業税)に商人や職人の仲間を公認し、営業の独占を許し始めた。こうして認められた営業の独占権をかぶと呼び、その仲間を株仲間と呼ぶ。

また、問屋仲間のもとに仲買なかがいも同様に仲間をつくって、小売商人や他所の商人への卸売を独占することがあった。問屋仲間と仲買仲間のもとにいた小売商人の多くは店舗をもたない零細な商人で、振売ふりうり棒手振ぼてふりなどと呼ばれた。

広告