地方と貴族社会の変貌
桓武天皇以後、9世紀の朝廷では天皇の政治的地位は高まり、天皇と親しい少数の皇族・貴族が政治に力をもち、その立場を背景に多くの土地を私的に集積し、勢いをふるうようになった。9世紀後期ころから、このような特権的な皇族・貴族は院宮王臣家と呼ばれ、拡大した彼らの経営が国家財政と衝突することもおこった。
地方と貴族社会の変貌
8世紀の後半から、農村では調・庸や労役の負担を逃れようとして浮浪・逃亡する農民が相次いだ。その背景には、農民層が有力農民とその経営下に入る農民とに分解していったこと、また貴族・寺院などによる大土地所有が進展して、浮浪・逃亡農民を受け入れたことなどがある。9世紀になると、戸籍には兵役・労役・租税負担の中心となる男性の登録を少なくするなど偽りの記載(偽籍)が増え、平均的な農民家族を単位として班田収授を行い、租税の徴収をはかってきた律令の制度は実態と合わなくなる。こうして、手続きの煩雑さもあって8世紀の終わりころから班田収授の実施が困難になっていった。
桓武天皇は、班田収授を励行させるため、6年1班であった班田の期間を12年(一紀)1班に改め、律令の定める土地制度の維持をはかった。また農民の負担軽減として、公出挙の利息を利率5割から3割に減らし、また雑徭の期間を年間60日から30日に半減するなど、農民の生活安定と維持を目指した。しかし、9世紀には班田が30年、50年と行われない地域が増えていった。
8世紀後半から調・庸など租税の都への貢進が遅れたり、品質が悪くなったり、未進となることが広まると、中央の国家財政の維持が次第に困難になっていった。政府は、国司・郡司たちの租税徴収にかかわる不正・怠慢を取り締まるとともに、823(弘仁14)年には大宰府管内に公営田を設け、また879(元慶3)年には畿内に元慶官田を設けて、直営方式の田を設定し、有力農民を利用した経営によって財源を確保しようとつとめた。
公営田と元慶官田
823(弘仁14)年に大宰大弐小野岑守の建議で、大宰府管内で行われた田制。良田1万2000余町の口分田などを公営田とし、徭丁6万余人を動員して5人ごとに1町を耕作させ、収穫した稲から、徭丁の調・庸・租分を差し引き、食料も支給してなお残る100万余束を納官する仕組み。徴収が困難な調・庸などの人別負担を土地別に課するという、人から土地への課税方式の変更でもあった。
879(元慶3)年に畿内で中央諸官司の財源確保のために行われた元慶官田も、こうした土地への賦課に依存する方式であった。畿内5カ国に4000町の官田を設け、諸国の正税から町あたり120束の営料をあてて農民に耕作させ、全体の収穫の半分を官に入れ、半分は地子(収穫の5分の1)として納めさせるという仕組みであった。この元慶官田は2年後には諸官司に土地が分割されて、諸司田となっていった。
本来は租税を集約する財政官司から一元的に支給されるべき官人給与や官司経費が、それぞれの官司別の土地経営に頼るようになったのである。
やがて中央の諸官司は、それぞれ自らの財源となる諸司田をもち、国家から支給される禄に頼ることができなくなった官人たちも、墾田を集めて自らの生活基盤を築くようになった。9世紀には、天皇も勅旨田と呼ぶ田をもち、皇族にも天皇から賜田が与えられるようになった。こうして、太政官を中心に地方から徴収した租税を官人たちに分配する統一的・一元的な律令の財政体系は変質していった。
桓武天皇以後、9世紀の朝廷では天皇の政治的地位は高まり、天皇と親しい少数の皇族・貴族が政治に力をもち、その立場を背景に多くの土地を私的に集積し、勢いをふるうようになった。9世紀後期ころから、このような特権的な皇族・貴族は院宮王臣家(権門勢家)と呼ばれ、拡大した彼らの経営が国家財政と衝突することもおこった。下級官人のなかには進んで院宮王臣家の家人となる者もあり、地方の有力農民たちも保護を求めてやはりその勢力下に結びついていき、ときに国司と対立した。