大化改新
中臣鎌足と中大兄皇子は、645(皇極天皇4)年6月、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を謀殺した。翌日、蘇我蝦夷も自殺し、蘇我氏本宗家は滅亡した(乙巳の変)。皇極天皇は退位して弟の孝徳天皇に譲位し、元号を「大化」、新たな政権が発足し難波に宮を遷した。
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中国では、618年に隋(王朝)が滅び、唐(王朝)がおこった。唐は、均田制と租庸調制を核とした律令法に基づく中央集権的な国家体制の充実をはかり、太宗(唐)の治世には、貞観の治と呼ばれる盛期を迎え、周辺諸国を圧迫していった。( 世界史・唐の建国と発展 | 世界の歴史まっぷ)
一方、朝鮮半島諸国では、引き続き権力集中が政治の目標とされた。百済では、641年、義慈王がクーデターによって権力を掌握し、642年以降、新羅領に侵攻した。
高句麗では、642年、宰相の泉蓋蘇文が国王と大臣以下の貴族たちを殺し、百済と結んで新羅領をうかがった。
新羅は唐に救援を求めたが、唐が要求した女王交代の採否をめぐって、647年に内乱状態となった。
太宗(唐)は、644年から高句麗征討にのり出したが、倭国において、クーデター(乙巳の変)とそれに続く政治改革(大化改新)が行われたのは、これら東アジアの国際情勢に対応したものであった。
蘇我馬子のあとを受けた蘇我蝦夷(?〜645)は、大臣として権力をふるっていたが、皇極天皇のときになると、その子の蘇我入鹿(?〜645)が、父をしのぐ実権を掌握していた。入鹿は643年に、厩戸王の子である山背大兄王(?〜643)の一族を滅ぼした。入鹿は、蘇我系の天皇のもとで蘇我氏が権力をふるうという、ちょうど高句麗と同じような権力集中を目指していたことになる。
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一方、唐から帰国した留学生や学問僧から最新の統治技術を学んだ者の中からは、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって、官僚制的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きがおこった。
中臣鎌足(のちに藤原鎌足 614〜669)と中大兄皇子は、645(皇極天皇4)年6月、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を謀殺した。翌日、蘇我蝦夷も自殺し、蘇我氏本宗家は滅亡した(乙巳の変)。
皇極天皇は退位して弟の孝徳天皇に譲位し、新たな政権が発足した。
まず、中央豪族の代表として、阿倍内麻呂(?〜649)が左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)が右大臣に任命された。中臣鎌足は内臣という地位につき、また唐から帰国していた僧旻と高向玄理は国博士として、政権のブレーンとなった。
元号
紀年法の一種で、ある期間の年数の上につける名称。漢(中国)の武帝の建元元(紀元前140)年に始まり、朝鮮・日本でも使用された。制定権は中国では皇帝、日本では天皇にあった。日本では大化(645年)以後、孝徳朝の白雉、天武朝の朱鳥など、『日本書紀』に記載のある元号を経て、文武朝の大宝(701年)からは法的に制定され、その後は継続している。
ただし、律令に基づいて制定された大宝より以前の元号については、木簡などからは確かめられない。また、律令制成立期と中世後期などには、朝廷が決めた元号とは異なる私年号が用いられることもあった。改元の理由には、即位・祥瑞・災異・干支(辛酉・甲子)などがあった。明治より以前には、天皇一代について複数の元号を用いることも多かったが、明治元(1868)年に一世一元の原則が定められた。昭和22年(1947)年に公布された新皇室典範には元号の条項はなく、元号の法的根拠はなくなって、元号存廃の論議が行われた。のち昭和54(1979)年になって元号法が制定され、内閣の権限によって元号が定められることになった。
645(大化元)年にはまず、東国に使者を派遣し(東国国司)、国造の支配の実態と人口・田地を調査させ、新政策が具体的に始まった。
同時に男女の法を制定し、生まれた子どもを父方・母方のいずれに所属させるかを明確にした。人口調査の前提として、原則を立てたものである。
その後、新政府は難波に宮を遷した。東アジアの動乱に積極的に関与するため、大和の外港である難波に拠点をおいたのであろう。
翌646(大化2)年元日、4カ条からなる改新の詔を発したと『日本書紀』は記す。この詔の信憑性については、さまざまなな論議がおこっている。『日本書紀』に記載されたままの詔の存在は疑わしいが、その基となる原詔が出されて、ある程度の改新の目標が示されてもおかしくない時代情況ではあった。ただし、どこまでが当時出された原詔の姿を伝えているかは、難しい問題である。
郡評論争
大化2(646)年に出されたとされる大化改新の詔のうち、第2条の信憑性をめぐっての論争。
改新の詔には国・郡・里という地方行政組織を定めたことがみえるが、この時期の金石文や、氏族系譜をはじめとする諸史料には、「郡」ではなく「評」と記したものが多くみられる。
これに基づいて、もともとの改新の詔には「評」とあったという説が出された。この学説に対する盛んな論争が続いたが、決着をつけたのは藤原宮跡から出土した木簡であった。庚子年、すなわち700(文武天皇4)年以前の木簡には、全て「評」と記されており、701(大宝元)年以降の木簡には「郡」と記されているのである。
これによって、大宝令以前には「評」が用いられ、改新の詔の「郡」は、『日本書紀』編纂時の現行法令である大宝令によって修飾されたものであることが明らかとなった。
なお、「郡」も「評」も、ともに朝鮮の制度の影響を受けたもので、同じく「コオリ」と訓む。
第1条は、王族や豪族が土地・人民を所有することを禁止し、(公地公民制)、豪族に食封を支給することを定めたものである。しかし、この当時このような改革を宣言したとは考えにくい。諸豪族の部曲・田荘の領有は、かなりのちまで認められているからである。
第2条は、京師・畿内・国・郡・里という地方行政組織を定め、中央集権的な政治体制をつくることを定めたものである。
このうち、「郡」の字が大宝律令施行以前には「評」であったことが、藤原宮跡から出土した木簡によって確認されている。
ただし、用字はともかく「評」という行政組織は649(大化5)年には設定されており、このころに目標として定められた可能性もある。同様に、畿内国の制もこの時代に近いころのものであろう。
第3条は、戸籍・計帳をつくり、班田収授法を行うことを定めたものである。これらの用語は、いずれも大宝令の修飾を受けている。東国国司が行った人口と田地の調査を踏まえて、定められたものであろう。実際に戸籍が作成されるのは、670(天智天皇9)年を待たなければならない。
第4条は、新しい統一的な税制を定めたものである。この第4条が、この時期に定められた制度としてふさわしい。ここで定められた税は、田の調・戸別の調・官馬・仕丁・庸布・庸米・釆女であるが、田の面積に応じて徴収する「田の調」は畿外を、戸数に応じて徴収される「戸別の調」は畿内国を対象としたものであろう。ほかの税についても、大化以前から行われていたもので、このときに新しい徴収基準が定められたと考えられる。
646(大化2)年には、葬儀・婚姻・交通など習俗の改正を命じる詔が出され、従来の共同体的習慣を否定した中国的な文明浸透への道が示された。
また、品部(職業部、名代、子代の部、部曲を含む)の廃止が命じられ、それらの部を権力基盤としてきた諸豪族に対しては、これまでの臣・連・伴造・国造の職を捨てて、新たに設ける冠位と官職を授けることが宣せられた。
647(大化3)年、冠位十二階を改め、7色13階からなる新しい冠位制が制定された。これらは大臣や地方豪族をも授位範囲に含むもので、臣下はすべて官僚制に組み込まれることになった(649年には、19階に拡大されている)。
650年には、中国的な祥瑞の思想によって白雉と改元し、難波の新宮に遷り、これを難波長柄豊碕宮と名付けた。
孝徳天皇の代に行われたこれら一連の政治改革を、全体として大化改新と呼ぶが、中大兄皇子や中臣鎌足がめざした中央集権国家の建設は、こののち、約半世紀の長い道のりと、幾多の政変、戦乱を経て、初めて完成されていったのである。
大化改新否定説
1960年代に入り、『日本書紀』の本文研究の進展に伴って、「大化改新の詔」の細目規定である副文だけではなく、主文についても疑いをもつ学説が提出された。
それを受けて、大化改新を再検討する作業が進められ、『日本書紀』の孝徳天皇の治世に出された詔文の多くは、孝徳朝に出されたという確実な根拠がないものであり、それを除外した改新像は、貧弱な内容のものになるという「大化改新否定説」が影響力をもった。
この説をめぐる議論は、7世紀における中央集権国家への歩みを再検討する上で有益であった。
しかし、大化改新を『日本書紀』にみえる改新関連の詔のみで考えるわけにはいかない。東アジアの動乱に対処するための権力集中やそれに伴う新しい官制や冠位制、東国を中心とする地方への中央権力への浸透、その結果としての天下立評、大和から難波への遷都など、『日本書紀』の記事の年紀には疑問があっても、その史実性までは否定することができない事実も存在する。
また、「改新の詔」の中の一部からも、7世紀中期当時の政治理念や目標をうたった部分が推測できる。
さらには、飛鳥京跡から孝徳朝の制度と関連のある木簡が出土し、五十戸=一里制が早い時期から行われていた可能性も出てきた。
こうして、『日本書紀』の諸詔の分析とは別の方法で、孝徳朝に行われた政治改革の実像を確かめていくことが求められるようになった。