大正政変
尾崎行雄・犬養毅らの政党政治家や新聞記者団・商工業者などが中心となり「閥族打破・憲政擁護」のスローガンを掲げ桂内閣打倒をめざす第一次護憲運動は、多数の群衆が国会議事堂を取り囲み新聞社を焼き討ちにするなど大騒動となった。騒擾事件が政局の成り行きに大きな影響を及ぼすようになった。
大正政変
日露戦争後東アジアの強国となった日本は、1907(明治40)年の帝国国防方針により、陸軍は現有の17個師団を25個師団に増師し、海軍は戦艦・巡洋戦艦(装甲巡洋艦)各8隻の建造を中心とする八・八艦隊を実現するという軍備拡張の長期目標を設定した。しかし、財政事情が苦しく、この軍備拡張計画はなかなか予定通りには実行できなかった。陸軍は増師が進まないことに不満を抱いていたが、1911(明治44)年、中国で 辛亥革命 がおこるとこれに刺激され、日本が併合した朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を第2次西園寺内閣に強く要求した。
しかし、そのころ日本の財政状態は悪化しており、実業界・言論界や政党の間からは、軍拡の財源にあてるための国債の発行や増税に反対する声が強く、むしろ財政・行政整理を求める気運が高かった。そこで1912(大正元)年、立憲政友会の西園寺内閣は、財政難を理由に2個師団軍増設を受け入れなかった。これに抗議した陸軍大臣上原勇作(1856〜1933)は、単独で天皇に辞表を提出し、西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。同年12月、それまで内大臣であった桂太郎が陸軍や藩閥・官僚勢力を後ろ盾に三たび内閣を組織した。桂は組閣にあたって天皇の権威に頼り、再三詔勅を出して反対派をおさえようとしたが、その少し前に明治天皇が亡くなり、大正天皇(在位1912〜26)が新しい天皇になったばかりのときで、国民の間には新しい政治への期待が広まっていたこともあり、陸軍や藩閥の横暴を非難する声がにわかに高まった。
こうしたなかで、立憲政友会の尾崎行雄・立憲国民党の犬養毅らの政党政治家や新聞記者団・商業会議所に結集する商工業者などが中心となり「閥族打破・憲政擁護」のスローガンをかかげ、桂内閣打倒をめざす、いわゆる憲政擁護運動(第一次護憲運動)を展開した。桂は1913(大正2)年、自ら立憲同志会の結成に乗り出し、衆議院を停会して反対派の切り崩しをはかったが、立憲国民党の一部(河野広中・島田三郎ら)や桂系の高級官僚たち(後藤新平〈1857〜1929〉・加藤高明〈1860〜1926〉·若槻礼次郎〈1866〜1949〉ら)が立憲同志会に参加しただけで、衆議院の多数を制するにはいたらなかった。立憲政友会・立憲国民党の大多数は激しく桂内閣を攻撃し、ついに同年2月、組閣以来2カ月足らずで桂内閣は退陣に追い込まれた(大正政変)。この際、護憲派を支持する多数の群衆が国会議事堂を取り囲み、警察官と衝突し、警察署や政府系の新聞社を焼打ちにするなど大きな騒動となった。
このような都市における民衆の騒擾事件は、日比谷焼打ち事件(1905)以来しばしばおこったが、そうした民衆の動きが政局の成り行きに大きな影響を及ぼすようになったことは、明治末期から大正時代にかけての政治の上での重要な特色であった。
憲政擁護
1912年、桂内閣打倒のための憲政擁護大会のときに生まれた語。立憲政治、つまり国民の参政権を基礎とする憲法に基づいた政治を護まもるの意であるが、具体的には藩閥の打破、軍部横暴の抑制などを目的とするもので、その後も、政党勢力や知識人・言論人たちが、藩閥・官僚・軍部・貴族院などの特権的勢力に対抗・反対するためのスローガンとして用いた。
桂のあとを受けて、(海軍に勢力をもつ薩摩閥(薩派)の山本権兵衛(1852〜1933)が内閣をつくった。山本内閣は立憲政友会を与党とし ❶ 陸海軍大臣の現役武官制を改めて、(予備・後備でも就任できるようにしたり、文官任用令を改正して自由任用・特別任用の範囲を広げ、政党員が高級官僚になる道を開くなど、官僚機構の改革にも力を入れた。しかし、まもなく、山本内閣の海軍拡張計画に反対して、営業税・織物消費税・通行税の撤廃を求める廃税運動が広がり、またシーメンス事件がおこって、同内閣は世論の激しい非難をあび、1914(大正3)年に倒れた。
シーメンス事件
海軍の高官たちがドイツのシーメンス社・イギリスのヴィッカース杜などに軍艦・兵器を発注した際に、多額のリベートを受け取ったという汚職事件。山本首相は海軍出身の実力者であったから、野党である立憲同志会の島田三郎らが激しく斎藤実海軍大臣や山本首相の責任を追及し、再び内閣打倒を叫ぶ群衆が議事堂を取り巻くという騒ぎになった。結局、1914(大正3)年3月、海軍の予算案が貴族院で大幅に削減され、山本内閣は総辞職した。
山本内閣の退陣後、元老たちは軍備拡張の実現と衆議院の多数党たる立憲政友会の打破に期待をかけて、すでに政界の第一線から引退していた大隈重信をつぎの首相に推薦した。大隈は庶民的な性格や自由民権運動以来の政治的経歴によって国民の人気を集め、加藤高明の率いる立憲同志会を与党として組閣した(第2次大隈内閣)。そして、1915(大正4)年の総選挙で立憲同志会などの与党が衆議院の過半数を制するという勝利を収め、大隈内閣は懸案の2個師団増設と海軍拡張案を実現させた。