宗教の自由
教派神道一覧 ©世界の歴史まっぷ

信教の自由

> >


信教の自由

大日本帝国憲法でも条件つきで信教の自由が明文化されたが、キリスト教は庶民にそれほど普及せず、教育勅語が発布され、内村鑑三不敬事件がおこると 、仏教界からのキリスト教攻撃もおこり宗教界は混乱した。

信教の自由

神道

教派神道

教名成立創始者公認
教祖教説系3派黒住教1814黒住宗忠1876岡山、天照大神信仰
金光教1859川手文治郎
(赤沢文治)
1900岡山、天地金乃神の尊信
天理教1838中山みき1908大和、天理王命が教神
山岳信仰系3派扶桑教1873宍野半1882富士講からおこる
実行教1878柴田花守(咲行)1882富士講からおこる
御嶽教1873下山応助1882木曽御嶽の講からおこる
神道系7派神道本局1875神道事務局1882神道事務局の後身。
のち神道大教
神道修成派1873新田邦光1876キリスト教対策。山岳信仰者中心
出雲大社教1873千家尊福1882出雲大社の講
(神道)大成教1879平山省斎1882種々の教会の集合体的性格
神習教1881芳村正秉1882東京、神道国教化を主張
神理教1880佐野経彦1894福岡、三条教則が教理
(神道)禊教1840井上正鉄1894天照大神、禊祓の修行重視

明治初期の神道しんとうによる国民教化の方針は、十分な成果をあげるにいたらなかったが、政府は国家の統制のもとに、神社神道確立の方向に向かった。それとともに、民間の神道として政府の公認を受けたものが教派神道であった。明治年間に13派の教派神道が公認されたが、なかでも、幕末におこった天理教・金光教などは庶民の間にかなり広まった。

ー方、仏教は廃仏毀釈はいぶつきしゃくの風潮が弱まるとともに勢力を回復し、井上円了いのうええんりょう(1858〜1919)のように国粋主義の立場から仏教の覚醒を促したり、島地黙雷しまじもくらい(1838〜1911)のように神道の国教化に反対して信教の自由を説き、仏教復興をはかる仏教思想家も現れた。

キリスト教

キリスト教の浸透

札幌バンド札幌農学校1・2期生らによるキリスト教信者集団。内村鑑三と新渡戸稲造らを排出。農学校教頭クラーク(米)の影響を大きくうけ、1876年、「イエスを信ずる者の契約」に署名した。
横幅バンド明治初期、横浜においてブラウン(米)やヘボン(米)の指導の下、プロテスタント・キリスト教の信者となった集団。日本基督教会の中心的な役割をはたした牧師である植村正久らを排出。
熊本バンド熊本洋学校教師ジェーンズ(米)の教えをうけ、キリスト教を広めようと、1876年に制約をおこなった集団。のち、ともに同志社の総長となった海老名弾正、小崎弘道、徳富猪一郎(蘇峰)らを排出。

キリスト教は、幕末からオランダ人フルベッキ( Verbeck, 1830〜98)、アメリカ人ヘボン、ジェーンズ( Janes, 1838〜1909)、ロシア人ニコライ( Nikolai, 1836〜1912)らの外国人宣教師が来日して布教を行っていたが、1873(明治6)年に禁制が解かれ、欧米の新しい文化・思想の流入に伴って、主として知識階級の人々にしだいに受け入れられるようになった。とくに、幕末に新しくもたらされたプロテスタンティズムの諸派は、外国人宣教師が中心となって、盛んに布教活動にあたり、教会や学校(ミッション=スクール)の設立も相つぐようになった。また、日本人の信徒のなかからも、新島襄にいじまじょう·内村艦三・植村正久(1857〜1925)・海老名弾正えびなだんじょう(1856〜1937)のような優れたキリスト教思想家・教育者が現れて、とくに青年たちの心をとらえた。キリスト教的人道主義の立場から、社会福祉や廃娼運動などの活動も行われるようになった。

なお、信教の自由については、これを認めるべきであるという要求がしだいに強くなり、1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法のなかでも、「安寧あんねい秩序ヲ妨ケス及臣民しんみんタルノ義務二背カサル限二於テ」という条件つきながら、「信教ノ自由ヲ有ス」ることが明文化された(第28条)。しかし、キリスト教は庶民の間にはそれほど広くは普及しなかった。また、教育勅語が発布され、内村鑑三不敬事件がおこると、「忠君愛国」を強調する国家主義の立場から、キリスト教がこれと相容れないとする攻撃も行われるようになり 仏教界からのキリスト教攻撃もおこって宗教界は混乱した。

例えば、井上哲次郎は「教育と宗教との衝突」という論文を発表して、キリスト教が教育勅語の精神に反しているとして攻撃した。

プロテスタント

ルターやカルヴァンらのキリスト教の改革派は、カトリックの伝承主義に反対して信仰の内面性と聖書の尊重とを説き、福音主義、福音派と称した。1529年、神聖ロ一マ帝国皇帝カール5世 はシュパイアー国会で新教の保護を拒否したので、改革(新教)派は連合して抗議書(protestatio)を提出した。ここからProtestant(抗議者)の語がおこり、その一派を Protestantism と称するにいたった。

広告