山東出兵と張作霖爆殺事件
北伐を再開した中国国民政府軍が華北に近づくと、日本人居留民の保護を理由に、1927(昭和2)〜28年、3次にわたって山東出兵を行い、北伐の勢いが華北・満州に広がることをおさえようとした。1928年6月、関東軍は満州の実権者張作霖の列車を爆破し殺害した。
山東出兵と張作霖爆殺事件
中国では五・四運動のあと、反帝国主義の民族連動が一段と盛んになり、1924(大正13)年には、中国国民党と中国共産党とが第1次国共合作を行い、軍閥打倒の方針を打ち出した。孫文の死後、あとを継いで国民党の最高指導者となった蒋介石(1887〜1975)は、1926(大正15)年、国民革命軍総司令に就任し、全国統一をめざし国民革命軍を率いていわゆる北伐を開始した。
1927(昭和2)年初めには、国民革命軍の勢力は長江(揚子江)流域に及び、漢口などのイギリス租界を回収した。イギリスは日本に対し共同で中国に出兵することを提案したが、日本政府は幣原喜重郎外相の対中国内政不干渉政策により、イギリスの提案を受け人れなかった。
ついで同年3月、国民革命軍が南京に入城した際、その兵士たちによってアメリカ・イギリス・日本などの総領事館や居留民たちが襲われ、死傷者がでたため、アメリカ・イギリスは、長江上の軍艦から報復の砲撃を加えたが、日本はこれに加わらなかった。しかし、この南京事件の結果、列国の強い抗議を受け、苦境に立った蒋介石は、列国の居留民や総領事館襲撃は共産党系勢力の行為とみなして、同年4月、反共クーデタ(四・一二クーデタ)を行って共産党と絶縁を宣言し、南京に国民政府をつくった。
若槻内閣の幣原外相は、内政不干渉主義に則って国民革命軍の北伐にも干渉を避ける方針をとったが、陸軍・国家主義団体・野党の立憲政友会や中国に利権をもつ実業家たちなどの間からは、幣原外交を中国における日本の権益を守れない弱腰の「軟弱外交」と非難し、対中国強硬方針を唱える声があがった。このころ日本国内では、雑誌『東洋経済新報』に拠って小日本主義の立場から植民地を放棄して貿易関係に重点をおくことを主張した石橋湛山(1884〜1973)のようなジャーナリストもいたが、それはごく少数派で、国民の支持を集めるにはいたらなかった。
1927(昭和2)年4月に成立した立憲政友会の田中義一内閣は、欧米諸国に対しては幣原外交時代の協調外交方針を受け継ぎ、アメリカ・イギリスと海軍の補助艦制限を話し合うジュネーヴ軍縮会議に参加し(結局、交沙妥結せず)、翌年にはパリで不戦条約に調印した。しかし、対中国政第の面では北伐を再開した国民政府軍が華北に近づくと、日本人居留民の保護(いわゆる現地保護政策)を理由に、1927(昭和2)〜28(昭和3)年、3次にわたって山東出兵を行い、北伐の勢いが華北・満州に広がることをおさえようとした。その間、1928(昭和3)年には、済南で日本軍と国民政府軍が戦火を交じえる済南事件がおこった。
第1次山東出兵のあと、田中内閣は東京で外交当局者・軍部首脳を集めて東方会議を開き、中国問題を協議し、満蒙における日本の権益をあくまで守るという方針を確認した。これに基づいて日本政府は満州の実権者である軍閥の張作霖(1875〜1928)と交渉し、これを利用して満州における権益の拡大を求めた。しかしその後、張が日本のこうした政策にしだいに協力的ではなくなったので、関東軍(満州駐屯の日本軍)の一参謀がひそかに張の排除を計画し、1928(昭和3)年6月、北京から奉天に引きあげる途中の張の列車を爆破し、張を殺害した。陸軍はこの張作霖爆殺事件を中国国民政府側の仕業だと公表したが、国際的に疑惑をもたれ、また国内の野党(立憲民政党など)からは、満州某重大事件として攻撃された。
関東軍
日露戦争の勝利で日本はロシアから旅順・大連を中心とする遼東半島の南端地域(関東州)の租借権、長春・旅順間の鉄道権益などを獲得し、加えて鉄道を守るため、1km当り15名以内の守備兵をおく権利を得て、清国にも承忍させた。1906(明治39)年、関東都督府(都督は現役の陸軍大将または中将)をおき、関東州と鉄道付属地の軍事・行政・司法の権限を統轄した。1919(大正8)年関東都督府は廃止され、民政を管轄する関東庁と軍事を管轄する関東司令部(長は関東軍司令官)が設置された。このとき、関東軍司令官のもとにおかれた軍隊が関東軍である。編成は1個師団と独立守備隊6大隊からなり、平時の兵力約1万2000〜1万3000で、軍司令部は旅順におかれた(満州事変後、奉天、ついで長春に移る)。関東州・鉄道の守備が本来の任務であったが、政府、とくに不干渉政策に基づく幣原外交の対満蒙·対中国政策には強い不満をいだき、より強硬な対満蒙政策を主張した。1920年代末ころから、石原莞爾(1889〜1949)ら関東軍参謀たちが満蒙武力占領計画を検討するなど、幣原外交反対・対満蒙強硬論の急先鋒となり、1931(昭和6)〜32(昭和7)年には満州事変や「満洲国」建国の主役を演じた。
張作霖のあとを継いで満州の実力者となった子の張学良(1901〜2001)は、日本の反対を無視して国民政府に忠誠を示し、1928年12月、満州全土に中国国民党の旗(青天白日旗)をかかげ(いわゆる易幟)、満州における中国側の抗日気連は一段と高まった。このように、満州もひとまず国民政府の傘下に入り、この地を日本の特殊権益地帯として、中国本土から切り離して日本の権益を強めようとしていた田中内閤の対中国政策は失敗に終わった。こうして内外ともに苦境に立った田中内閣は、1929(昭和4)年、張作霖爆殺事件の善後措置に失敗して退陣した。
満州某重大事件
張作霖の爆殺は、関東軍参謀河本大作(1883〜1955)がひそかに計画し、部下の軍人たちに実行させたものであった。この事件をきっかけに満州を軍事占領し、新政権をつくらせて満州を日本の支配下におこうとする意図であったと思われるが、関東軍首脳の同意は得られず、それは実現しなかった。
関東軍当局は事件を中国国民政府側、すなわち「南方の便衣隊」(国民政府のゲリラ)の仕業と発表したが、田中義一首相は現地からの極秘情報で、日本の軍人が犯人であることを知った。事件の真相は一般国民には知らされず、議会では、事件に疑惑をいだいた立憲民政党など野党側が、「満州某重大事件」として田中内閣の責任を迫及した。日本の国際信用回復と陸軍部内の規律確立を重視した元老西園寺公望の強い要請もあり、田中首相は軍法会議を開いて真相を究明し、犯人を処罰する決意を示し、その旨を天皇に上奏した。
しかし、陸軍大臣をはじめ陸軍当局は軍法会議開催に強く反対し、内閣にも田中の考えに反対する声が強かった。田中は陸軍軍人出身の政治家であったが、現役を退いていたため陸軍内部を内部をおさえることができず、結局、軍法会議は開かれず、真相は明らかにされないまま、警備上に不備があったという理由で、犯人は行政処分に府されたにすぎなかった。田中首相は、それまでの上奏とのくい違いを天皇に厳しく叱責され、内閣総辞職に追い込まれた。