幕府と藩の機構 江戸幕府の職制図
江戸幕府の職制 ©世界の歴史まっぷ

幕府と藩の機構

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幕府と藩の機構

  1. 戦国以来の植生を拡充した「庄屋仕立て」で、3代将軍家光の頃までに整備された
  2. 要職には譜代大名・旗本らが就任し、複数制・月番制・合議制がとられた
  3. 行政と司法の区別がなく、評定所(老中と寺社・町・勘定奉行の三奉行らが出席)が、最高合議機関であった。
  4. 老中の指揮のもと、平時編成がそのまま軍事編成となった

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江戸幕府の財政収入
江戸幕府の財政収入 ©世界の歴史まっぷ

幕府の歳人の多くは年貢収入が占めており、不作で収入不足になる危険があった。当初300万石であった幕領も享保期には新田開発などにより、440万石にのぼった(左図)。幕末にかけ、幕領が増大しないなか、幕府は貨幣改鋳の益金や御用金の増収により、歳人を増大させていった(右図)

幕府の権力は、諸大名に比べて大きく優越していた。まず財政面では、400万石(17世紀末)にも及んだ直轄領(幕領、俗に天領という)から徴収する年貢が、財政の基本となった。これに旗本知行地約300万石を加えると計700万石に及び全国の石高を約3000万石とすれば、ほぼ4分の1を占めることになる。加賀の前田氏の約100万石と比べても圧倒的なことがわかる。また佐渡相川・伊豆·但馬生野・石見大森など直轄の主要鉱山からの収入や、江戸・京都・大坂・長崎·堺などの重要都市を直轄にして商工業者からの献金や貿易からの利益をあげ、さらに貨幣の鋳造権をもって絶大な富力をもった。

江戸幕府の軍事力

構成・直参(旗本・御家人:将軍直属の兵力で、その家臣をあわせて俗に旗本八幡騎とよばれた
・諸大名の軍役
総数旗本・御目見得(将軍に謁見)を許可される者で、知行取と蔵米取で構成
・約5200人(寛政年間:知行取約2260人・蔵米取約2940人)
御家人・御目見得は許可されない者で、ほとんどが蔵米取で構成
・約1万7240人(正徳年間:うち、知行取は1%にも満たない172人)
組織役方・行政、経済関係の役職
[旗本] 勘定奉行・町奉行・大目付・目付・代官など
[御家人] 与力・同心など
番方・軍事部門を担当する役職
[旗本] 大番・書院番・小姓組番など
[御家人] 徒士組・鉄砲百人組など
無役・寄合組:3000石以上
・小普請:3000石以下(のち小普請金を上納)

財政面のみではなく、幕府権力を優越させたのは、その軍事力であった。それは将軍直属の家臣団である旗本・御家人のほかに、諸大名が負担する軍役で構成され、圧倒的な力を保持していた。直参じきさんと呼ばれた直属家臣のうち、将軍に謁見(お目見え)を許される旗本は、1722(享保7)年の調査で5205人、お目見え以下の御家人は1万7399人であった。旗本1人平均600石の知行とすると、1000石の旗本は総勢23人が出陣する軍役規定(窃永10年)であるから、これに当てはめるとおよそ7万人の軍勢ということになり、「旗本八万騎」に近いものとなる。関ヶ原の戦いにおける西軍が8万5000人の軍勢であったから、旗本だけでもこれに匹敵した。平時において、旗本は大番おおばん書院番しょいんばん小姓組番こしょうぐみばんの3番組に編成され、御家人は徒士組かちぐみ鉄砲百人組などの諸隊に組織された。これらを番方ばんかたといい、それぞれ番頭ばんがしらや組頭に率いられた。ほかに旗本は勘定奉行・町奉行・大目付・代官などに、御家人は与カよりき・同心など行政面についたが、これを役方やくかたという。無役の旗本・御家人は小普請組に入れられた。また、旗本は多くが知行取であったが、御家人はほと蔵米取くらまいどりで蔵米(切米・扶持米ふちまいとも呼ばれる)を支給された。

幕府の職制は、3代将軍家光のころまでに整備された。それ以前の家康・秀忠時代は、三河以来の譜代門閥(大久保忠隣おおくぼただちか酒井忠世さかいただよ·土井利勝どいとしかつら)が、年寄という立場にあって将軍や大御所の側近を固め、重臣となった。このほか僧の南光坊天海(1536?〜1643)・金地院崇伝、儒者の林羅山はやしらざん(1583〜1657)、商人の茶屋四郎次郎(1542〜96)・後藤庄三郎らが家康の側近として諮問にこたえた。

幕府と藩の機構 江戸幕府の職制図
江戸幕府の職制 ©世界の歴史まっぷ

家光時代の1635(寛永12)年前後に、老中・若年寄・大目付・目付・三奉行といった職制が定まった。幕政の中枢にあった年寄は老中と呼ばれ、定員4人で幕政を統轄するようになった。井伊家など特定の譜代大名がなった最高職の大老は常置ではなく、重要事項のみ合議に加わった。また、老中を補佐し旗本を監督する若年寄(4人)、大名を監察する大目付、旗本を監察する目付がおかれた。さらに、寺社の統制などにたずさわる寺社奉行(4人)や幕領の財政と行政にあたる勘定奉行(4人)、江戸の市政を担当する町奉行(南北2人)の三奉行が実務を処理した。以上の幕府の要職は月番制(1カ月交代で勤務)をとり、重要判断は合議制をとった。また、老中・三奉行・大目付らは評定所を構成して、国境い訴訟など重要な裁判を担当した。

地方組織では京都所司代(1人)が重要で、朝廷の統制や西国大名の監視を行った。京都(二条)・大坂・駿府すんぷは重要都市であり、城代じょうだい(各1人)と町奉行(各1〜2人)がおかれた。そのほかの要地である伏見・長崎·佐渡・日光などには、奉行(いわゆる遠国奉行おんこくぶきょう(各l〜2人)がおかれた。また幕府直轄地では関束・飛騨・美濃などには郡代ぐんだいが、その他の直轄地には代官(40〜50人)が、勘定奉行の下で直接に民政をつかさどった。

大名の領地・領民·支配機構を総称してと呼ぶ。大名は、初期には権力の弱さから領内の有力武士に領地を与え、その領民支配を認める地方知行制じかたちぎょうせいをとる楊合もあった。しかし、一国一城令(1615年)で有力武士の軍事的·経済的拠点となった支城が破却されたり、幕府による大名の転封が進められ、在地に根づかないいわゆる「鉢植え大名」になると、有力武士の在地性も失われ、大名による領内一円支配が進められた。その結果、有力武士を家臣団に編成して城下町に集住させ、家老や奉行などの役職につけて藩政を分担させた。

17世紀半ばになると、多くの藩では地方知行制はみられなくなり、郡奉行や代官などが支配する直轄領(蔵入地くらいりち)から徴収した年貢を蔵米として支給する俸禄制度ほうろくせいどが行われるようになった。

藩財源の中心は、対馬の宗家の対朝鮮貿易利益や松前藩のアイヌ交易と場所からの利益を除けば、多くの場合は年貢米で、そのうち半分近くが藩士の俸禄に支出された。藩士の大部分は数百石ないしは数十石の知行しかもたない蔵米取であった。下級の足軽などは何人扶持とか、給金何両というかたちで俸禄を与えられた。1人扶持は、1人の食料として1日に米5合を支給されるものであった。

大名は、これら家臣団をさらに厳しく統制するために藩法を制定した。また領民統治の方策も幕府法を基準に行われたが、それに反しない限りは大名独自の政治を行うことができた。こうして大名による領地・領民を支配する力は強化され、藩の職制もおよそ幕府のそれを縮小したかたちで整備され、藩権力は確立していった。

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