院政の開始
白河天皇は1086(応徳3)年、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌って、幼少の堀河天皇に譲位したのち、上皇(院)として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る「院政」を行うようになった。院の御所に北面の武士や武者所を組織し政治の実権を行使した院政は百年あまり続いた。
院政の開始
後三条天皇は子の白河天皇(在位1072〜1086)に位を譲って院庁をおいたが、病気のため早く亡くなった。その国政改革の遺志を受け継いだのが白河天皇であり、1086(応徳3)年、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌ってにわかに幼少の堀河天皇(在位1086〜1107)に譲位したのち、上皇(院)として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになった。
上皇は、中・下級貴族のなかでも、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士や武者所を組織したり、源義家や平正盛らの源平の武士団を側近として護衛させるなどして、院の権力を強化した。院庁の職員は院司と呼ばれ、院司として上皇に仕えた近臣たちは、朝廷での官職がさほど高くない蔵人や弁官、諸国の国司をつとめるものが多かった。
やがて堀河天皇の死後には、白河院は孫の鳥羽を天皇に据えて、本格的な院政を開始することになった。このように院政は、もともと自分の系統に皇位を継承させようとするところから始まったもので、法や慣習にこだわらずに上皇が政治の実権を行使し、白河上皇のあとも、鳥羽上皇・後白河上皇と3上皇の院政が百年あまり続いた。院政のもとでは院庁から下される文書の院庁下文や、上皇の命令を伝える院宣が権威をもつようになり、朝廷の政治に大きな影響力を与えるようになった。
三不如意
『源平盛衰記』によれば、白河上皇は、自分の意のままにならぬのは鴨川の水、山法師、双六の賽の目の三つだと語ったという。京都の治水、延暦寺の僧兵、賭博だけが自分の意思通りにはならないという、上皇の専制ぶりがうかがえる。法勝寺の法会が4度も雨が降って延期になったことに怒り、雨を容器に入れて獄に投じたという話(『古事談』)もある。上皇の近くに仕えた貴族の藤原宗忠は、「意に任せ、法に拘らず、除目・叙位を行ひ給ふ。古今未だあらず」とも評している(『中右記』)。
同じような上皇の話は鳥羽上皇・後白河上皇にもみえるところで、これら上皇の勢力の上昇とともに、それまで朝廷を支配してきた藤原氏の勢力は衰えざるを得なくなった。しかし、全く衰えたのではなく、摂関家として家の経済を整え、荘園を集積し、天皇の外戚かどうかにかかわらずに、天皇を補佐するその地位を確立している。
白河上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、多くの大寺院や堂塔・仏像をつくり、しばしば紀伊の熊野詣や高野詣を繰り返し、盛大な法会を行った。なかでも「国王の氏寺」と称された法勝寺は、京の東の白河に建立され、その八角九重塔は上皇の権威を象徴するものとなった。この法勝寺ののち、堀河天皇の造立した尊勝寺など、院政期に天皇家の手で造営された「勝」の字のつく6寺は六勝寺と称されている。六勝寺は院の仏法による支配を象徴するものであった。
さらに京都の郊外の鳥羽には離宮が造営されたが、この鳥羽殿の離宮や六勝寺の造営の費用を調達するために、広く受領(国司)の奉仕が求められたほか、売位や売官が盛んに行われるようになった。上皇の周りには富裕な受領や后妃・乳母の一族など、院近臣と呼ばれる一団が集まり、上皇の力を借りて収益の豊かな国の国司などの官職に任命された。