交通の整備 五街道と脇街道地図 廻米と交通
五街道と脇街道地図 ©世界の歴史まっぷ

廻米と交通

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廻米と交通

村からの年貢米は、幕僚の場合は江戸浅草の御蔵おくらのほか、大津など各地の幕府蔵に納められた。諸藩の場合は、城下町に集められ、家臣に給付したり、城下町商人に売却したほかは、大坂の蔵屋敷くらやしきに廻米かいまいし、これを堂島どうじまなどの米市場で換金して、藩財政にあてた。江戸時代は「米遣いの経済」と呼ばれるように、商品の最大のものは年貢米であった。

廻米と交通

村からの年貢米は、幕僚の場合は江戸浅草の御蔵おくらのほか、大津など各地の幕府蔵に納められた。諸藩の場合は、城下町に集められ、家臣に給付したり、城下町商人に売却したほかは、大坂の蔵屋敷くらやしき廻米かいまいし、これを堂島どうじまなどの米市場で換金して、藩財政にあてた。江戸時代は「米遣いの経済」と呼ばれるように、商品の最大のものは年貢米であった。

廻米は船積みと陸路を用いたが、これらの交通の整備に徳川政権は早くから取りかかり、三都を中心に全国の物資が盛んに流通するようになった。

東海道と中山道地図
東海道と中山道地図 ©世界の歴史まっぷ

陸上交通の幹線というべきものは、幕府の道中奉行の支配下にある五街道であった。東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中がそれで、街道には1里ごとに一里塚がおかれた。宿駅しゅくえきは2〜3里ごとにおかれ、武士の泊る本陣脇本陣のほかに庶民が利用する旅籠はたご木賃宿きちんやどがあり、問屋場といやばを設けて人馬を常備し、公用旅行者の便がはかられた。

東海道は100人・100匹、中山道は50人·50匹、ほかの3道中は25人・25匹という規定である。もちろんこれだけでは大名の通行などに不足をきたすので、宿駅近在の村々から人馬を徴発してこれを補った。この課役(助郷役)を負担する村を助郷すけごうというが、のちには交通量が増大すると、助郷の範囲は拡大していった。

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五街道と脇街道地図 ©世界の歴史まっぷ

この五街道を幹線として、そのほか多くの支線である脇街道も開かれた。四日市から山田へ通じる伊勢路、大坂から豊前小倉にいたる中国路、白河・高崎·信濃追分から寺泊、出雲崎にいたる3つの佐渡路などはその主なものであり、各藩でもこれらの諸街道に通じる街道を開いていった。これらの街道で注目されるのは、幕府や諸藩の政治的配慮が強かったことである。五街道はすべて江戸を起点に放射状にでており、道中奉行の支配下にあって、各所に関所渡しがおかれた。東海道には箱根と新居、中山道には碓氷うすいと木曽福島、甲州道中には小仏こぼとけ、日光道中には栗橋に関所がおかれ、とくに「入り鉄砲と出女」が厳しく取り調べられた。

通信機関としては、飛脚の制がととのった。幕府公用の継飛脚つぎびきゃくが早い例で、各宿駅で人馬を継ぎかえた。この制度にならって国元と江戸藩邸を結ぶ大名飛脚ができた。民間の町飛脚もしだいに盛んになり、寛文年間には三都の商人が営業する飛脚問屋びきゃくといやが成立した。これは東海道を6日で走り、月に3往復するので三度飛脚さんどびきゃくと呼ばれた。

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