旧石器・縄文・弥生文化の特色の比較表 弥生時代の3期区分 日本文化のあけぼの 弥生時代遺跡一覧(Google Map) 吉野ヶ里遺跡 弥生文化の成立 小国の分立
吉野ヶ里遺跡 Source Wikipedia

3. 小国の分立

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小国の分立

集団と集団がぶつかり合い、殺し合う戦争は、日本では弥生時代に始まったといってよい。世界的に見ても、農耕が始まり、成熟した農耕社会になるとともに、本格的な戦争が活発になった地域が多い。
農業の発展に伴って増加する人口を支えるために農地を拡大する必要、可耕地や灌漑用水の水利権の確保、余剰生産物の収奪などが、農耕社会で戦争が発生した大きな原因であっただろう。

小国の分立

環濠集落や高地性集落などの防御施設をもつ集落は、縄文時代にほとんどなかった。

縄文時代の環濠集落は、北海道苫小牧市静川16遺跡など、数例が知られているが、縄文時代中期で、弥生時代の環濠集落との関連性はない。
静川遺跡 | 北海道縄文のまち連絡会

秋田県秋田市地蔵田B遺跡(地蔵田遺跡)からは、弥生時代前期の柵で囲んだ集落が発見されており、弥生時代の環濠集落との関わりが論議されている。

また、磨製石鏃ませいせきぞく・磨製石剣・銅剣・銅矛・銅戈どうか鉄鏃てつぞく・鉄剣・鉄刀・盾や甲など専用の武器もなく、これらは弥生時代に出現する。
岡山県南方遺跡から出土した木製の盾には、石鏃が刺さっていた。福岡県スダレ遺跡の弥生時代中期の甕棺から出土した人骨には、胸椎に磨製石剣が刺さっていた。また、兵庫県玉津田中遺跡の人骨には銅剣もしくは銅戈が刺さっていた。
弥生時代のこうした武器による傷を受けた人骨の例は、北部九州と近畿地方を中心に30例以上みつかっている。人骨とともに甕棺かめかんから出土する銅剣や磨製石剣の折れた先端部は、副葬品と考えられていたが、戦闘による犠牲者が受けた武器である可能性が高まった。このような、人骨からわかる争いの犠牲者も、縄文時代には極めて少ない。

集団と集団がぶつかり合い、殺し合う戦争は、日本では弥生時代に始まったといってよい。世界的にみても、農耕が始まり、成熟した農耕社会になるとともに、本格的な戦争が活発になった地域が多い。
農業の発展に伴って増加する人口を支えるために農地を拡大する必要、可耕地や灌漑用水の水利権の確保、余剰生産物の収奪などが、農耕社会で戦争が発生した大きな原因であっただろう。

弥生時代の集落の中には、その地域を代表するような大規模な環濠集落が、前期後半以降目立つようになる。
愛知県朝日遺跡は弥生時代中期の環濠集落であり、ここでは環壕が住居を幾重にも取り巻き、ほりの中に木の枝を鋭く切った切り株を配置したり、濠と濠の間に先を尖らせた杭を斜めに打ち込んで、厳重なバリケードを築いている。

愛知県朝日遺跡のバリケード
農耕社会の成立
愛知県朝日遺跡の防御施設 Source: 朝日遺跡インターネット博物館

朝日遺跡は環濠の外側に、鋭い枝をつけたまま木を入れた溝を二重にめぐらし、さらにその外側に杭を密に打ち込んで集落を堅く守っていた。弥生時代中期に集落同士の戦いが激化した証拠である。 朝日遺跡インターネット博物館

農耕社会の成立
池上曽根遺跡の大型建物復元 Source: OSAKA-INFO 大阪観光情報 ASIAN GATEWAY OSAKA

奈良県唐古・鍵遺跡は、最大時には約30万㎡が濠で囲まれた。

大阪府池上曽根遺跡も約6万㎡が数条の環濠で囲まれた大集落であり、環濠のほぼ中央から、24本の柱で支えられた6.9m×19.6mの巨大な建物や、直径が2mにも及ぶ井戸などが検出された。

佐賀県吉野ヶ里遺跡は、弥生時代前期から後期の大集落遺跡で、二重の環壕で囲まれており、外壕で囲まれた範囲は弥生時代後期には約40万㎡にも及んだ。

これらの防備をめぐらした強力な集落は、農業生産をめぐる確執を背景とした争いを経て周辺の集落を結合し、政治的なまとまりを形成するようになる。
こうして各地に小国ができていった。
小国の分立状況は、漢書』地理志後漢書』東夷伝など、中国の歴史書からうかがうことができる。
1世紀、後漢(紀元25〜220)の班固が著した『漢書』(前漢の歴史を記したもの)の地理志は、「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見す」という、日本に関する最古の記述がある。
また、5世紀ころにできた『後漢書』の東夷伝には、建武中元2(紀元57)年に、倭の奴国なこくの王の使者が後漢の都洛陽に赴き、光武帝から印綬を授かったことが、また永初元(漢)(107)年にも別の倭の王が、生口せいこう160人を安帝(漢)に献上したことが書かれている。

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楽浪郡

紀元前202年、劉邦が打ち建てた漢帝国は、国内の体制が整うと、積極的に対外政策に乗り出した。
勢力下においた地方を「郡」として直接支配し、その中心地には役所である「郡治ぐんち」をおいた。
紀元前2世紀の終わりころまでに、南方の南越地方には南海郡など、西域には酒泉郡しゅせんぐんなどを設置した。
当時、朝鮮半島の北部には衛氏朝鮮が栄えていた。紀元前108年、武帝はそれを滅ぼし4郡を設置したが、その一つが楽浪郡である。
楽浪郡の郡治は現在の平壌市付近と推定されている。平壌市土城里には土城が残っており、ここから文字を書いた瓦や、封印をするために粘土に押しつけた印章の圧痕である封泥などが多く出土した。
さらに2000基もの古墳が発見されているので、ここが楽浪郡の郡治であることは疑いない。『漢書』地理志は、「楽浪海中有倭人」と書き、楽浪郡を窓口として、倭が漢と交渉をもっていたことがわかる。
北部九州で、弥生時代中期にさまざまな宝器を副葬した甕棺かめかんが発掘されているが、それは楽浪郡に使者を送った王の墓とみられ、青銅鏡・ガラスへきなどは使者がもち帰った代表的な漢からの贈り物である。
半両銭・五銖銭ごしゅせん・貨泉などの貨幣も楽浪郡からもたらされたが、これは西日本に広く分布している。
後漢末には、南に帯方郡を分置した。楽浪郡は、紀元313年、高句麗に滅ぼされた。

これらの記事からすると、1世紀(弥生時代中期末〜後期)の倭の小国には、王がいたことがわかる。おそらくその王が、地域を統合するための戦争を指揮したのであろう。これらの国や王に関する考古学的な裏づけも、主に北部九州で得られている。

奴国なこくは福岡平野にあった小国とされているが、その領域である志賀島からは、後漢の光武帝が奴国の王に授けたとされる金印が江戸時代にみつかった。北部九州の弥生時代中・後期の甕棺からは、大量の副葬品が発見されることがある。

中期後半のものである福岡県春日市にある須玖岡本遺跡すぐおかもといせきから、1899(明治32)年に甕棺墓が発見されたが、棺内には30面以上の前漢の鏡、銅剣・銅矛、ガラス璧などが納められていた。須玖岡本遺跡付近は、青銅器の鋳型いがたが大量にみつかっており、経済的にも地域の中心をなしており、この甕棺墓はまさに奴国なこくの王墓であると推定されている。

璧は代に出現した、軟玉を磨いてつくったドーナツ状の円盤で、漢代にはガラス製の璧もつくられた。西周以来、封建君主が臣下に与えた下賜品や、神への捧げものなどとして用いられた。漢代の墓に副葬されるときには、頭部や胸におかれるなど、特別な象徴的意味をもつものとして扱われた。

1822(文政5)年に発見された福岡県糸島市三雲南小路遺跡の甕棺からは、前漢の鏡35面、銅剣・銅矛・銅戈・ガラス璧8個、金銅製四葉座金具8個などが出土した。これは、3世紀に書かれた『志』倭人伝にみえる伊都国いとこくの王墓であると推定されている。
同じく糸島市の井原鑓溝遺跡から発見された中期後半の甕棺には、新時代前後の鏡が二十数面入っていた。
さらに、糸島市平原遺跡の方形周溝墓からは、後漢代を中心とした鏡が40面以上も出土した。後期の墓であり、伊都国の王墓が後期まで継続していたことを知る手がかりとなっている。

これら小国の王たちは、中国や朝鮮半島の先進的な文物を手に入れるため、また大国である漢の後ろ盾を得ることで倭における立場を高めようとして、中国に朝貢していたことがわかる。

吉野ヶ里遺跡と環濠集落

佐賀県吉野ヶ里遺跡は、脊振山せふりさん系からのびた丘陵上の環壕集落である。
1986(昭和61)年以来3年間かけた発掘調査で、巨大な環壕集落や墳丘墓の全体像がわかった。
環壕は弥生時代前期から掘られているが、後期になると丘陵全体を覆う、南北約1km, 東西約0.5km, 約40haの大環壕へと発展した。
ほりの外側には、掘った土を盛り上げて、土塁が築かれた。壕の内部には住居が営まれ、外側には倉庫が建てられた。
吉野ヶ里遺跡で重要なのは、後期になると、壕の内側にさらに壕をめぐらした、内郭ないかくと呼ばれる区画が出現する点である。
南北2カ所に内郭はあり、南内郭が約150m×70m, 北内郭が60m×60mで、北内郭は二重の壕がめぐる。
いずれの内郭も数カ所に壕がはり出した部分があり、そこから数本の柱の跡がみつかっており、『魏志』倭人伝に書かれた楼観ろうかん、すなわち見張りの物見櫓ものみやぐらの跡ではないかと推定されている。
北内郭の内側からは、16本の柱で支えた大きな建物の跡もみつかっており、内郭が身分の高い人々が住むところで、壕や物見櫓は、敵から彼らを守るための施設であったと考えられている。
古墳時代になると、環壕集落は消滅する。そのかわり、特別の建物を四角く囲んだ豪族居館が出現する。内郭が豪族居館へと変化したのであり、村全体でなく身分の高い人たちだけを守るようになった。

金印

漢委奴国王印 農耕社会の成立
漢委奴国王印

江戸時代、博多湾にある志賀島の叶の崎に甚兵衛という百姓がいた。
甚兵衛が田の水まわりをよくしようと水路を掘りなおしたところ、2人でやっと抱えられるほどの大きな石に当たった。
金てこでそれを動かすと、下に光るものがある。取り出して水で洗ってみると、金の印判のようなものであった。1784(天明4)年2月23日の出来事である。
驚いた甚兵衛は、兄の喜兵衛が以前奉公していた福岡のさる人に鑑定してもらったところ、貴重な金印であることがわかった。
やがて福岡中の評判になり、郡の役人の耳に入り、金印を役所に届けるよう命令が下った。そこで、庄屋の長谷川武蔵が金印発見のいきさつを甚兵衛から聞き書きして届け、金印は黒田藩の所有物となった。甚兵衛には、褒美として50両が与えられたともいわれている。
金印には、「漢委奴国王」の5文字が刻まれており、発見当時から『後漢書』に書かれた、光武帝が建武中元二(紀元57)年に倭の奴国の使者に与えた印であるとされた。
「委奴」の読み方は、江戸時代には「イト」(伊都)と読むのが主流であったが、明治時代に三宅米吉が「漢委奴国王カンノワノナノコクオウ」と読んで、それが定説になった。
金印が偽物であるという説も、江戸時代からあった。つまみが蛇をかたどった印は、漢の制度にないことなどがその理由であったが、第二次世界大戦後にも、文字の彫り方に基づく偽作説が現れた。これに対して正確に金印を計測し、一辺の平均の長さ2.347cmが後漢初期の一寸にあたることを突き止め、中国雲南省の石寨山古墓から「滇王之印」と彫った蛇形のつまみのある金印が出土するに及び、偽作説は退けられた。
出土位置についてもいくつかの説があり、それを知るための発掘調査も行われたが、正確な出土位置はわかっていない。

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