条約改正のながれ図 ©世界の歴史まっぷ

条約改正

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条約改正

幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約を平等な条約に改めようと、関税自主権の獲得と領事裁判制度の撤廃を求める条約改正問題は、明治維新以来、欧米列強と国際社会で肩を並べることを目標に近代化につとめてきた日本にとって、非常に重要な課題であった。

条約改正

条約改正
条約改正のながれ図 ©世界の歴史まっぷ

幕末に幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を平等な条約に改めようとする条約改正問題は、明治維新以来、常に欧米列強と国際社会で肩を並べることを目標に近代化につとめてきた日本にとって、非常に重要な課題であった。その中心問題は関税自主権の獲得(税権回復)と領事裁判制度の撤廃(法権回復)にあった。これは政府ばかりか、政府反対派によっても取りあげられ、しばしば政争の焦点にさえなった。

政府としては、明治初期に岩倉具視特命全権大使がアメリカとの条約改正交渉に失敗したのち、外務卿寺島宗則てらしまむねのりに交渉させ、1878(明治11)年税権回復につきアメリカの同意を得て、新しい条約に調印(翌年批准)したが、イギリスなどの反対にあって新条約は実施されなかった。そのころの日本は、まだ国会や憲法をもたず、国内の諸制度・諸法律などもととのっていなかったうえ、国際的地位も低かったので、欧米諸国はなかなか条約改正を認めようとはしなかったのである。

井上馨いのうえかおる外務卿(のち外務大臣)は、1879(明治12)年から1887(明治20)年までその職にあり、条約改正の任にあたった。彼は法・税権の一部回復をめざして、まず1882(明治15)年に東京で列国共同の条約改正予備会議を開き、その結果に基づいて1886(明治19)年から翌年にかけて正式交渉を開始した。その案の要点は、2年以内に外国人に内地を開放し、営業活動や旅行・居住の自由を認めること(いわゆる内地雑居)、外国人判事を任用すること、西洋風の近代的諸法律を2年以内に制定することなどを条件に、領事裁判制度を廃止し、輸入税率を引き上げるというものであった。井上はこの交渉を成功させるためもあって、いわゆる欧化政策をとり、盛んに欧米の制度や風俗・習慣・生活様式などを取り入れて、その模倣につとめ、欧米諸国の関心をひこうとした。鹿鳴館では、連日のように政府の高官が内外の紳士・淑女を招待して西洋式の大舞踏会を開いたり、バザ一を行ったりした。

鹿鳴館

イギリス人コンドル( Conder, 1852〜1920)の設計によるもので、1883(明治16)年、東京日比谷内幸町に落成した。総工費は当時の金で18万円、建坪約1350㎡、煉瓦造2階建で、政府高官・内外貴顕きけんの社交場として、また政治的な会合の会場として用いられた。しかし、民間からは「鹿嗚館夜会の燭光しょっこうは天にちゅうするも重税の為めに餓鬼道に陥りたる蒼生そうせい(庶民のこと)を照すあたはず」と厳しい非難の声が向けられた。

しかし、このような改正案に対して、政府部内から激しい反対の声がおこった。国権論者の農商務大臣谷干城たにたてき(1837〜1911)は井上の改正案に反対して辞任し、フランス人法律顧問ボアソナードも改正案が日本にとって不利であることを説いた。井上はついに1887(明治20)年7月交渉の無期延期を通告してまもなく辞職したが、民間では、民権派や国権派が中心となって反政府気運が高まり、同年、三大事件建白運動がおこるにいたったのである。

ノルマントン号事件

1886(明治19)年10月24日夜、暴風雨のなかを横浜から神戸に向かっていたイギリス汽船ノルマントン号(240トン)が、紀伊半島沖合で沈没した。30人の乗組員中、イギリス人船長以下ヨーロッパ人26人は救命ボートで脱出して救助されたが、インド人火夫かふや25人の日本人乗客は全員死亡した。日本国内では、激しくこれを非難する声があがった。領事裁判制度のため、神戸のイギリス領事による海事審判が行われた。船長らは、人命救助に努力したが日本人乗客は英語がわからずボートに乗り移ろうとしなかったと陳述し、過失責任なしと判定された。国論は沸騰して日本政府が船長らを告発し、裁判はイギリスの横浜領事裁判所に移され、同年12月8日、職責怠慢で船長に禁固3カ月の判決が下った。この事件は不平等条約のもとでの領事裁判の不当性を明白にし、法権回復を求める世論を高めるきっかけとなった。(ノルマントン号事件

ついで外相となった大隈重信は、列国間の対立を利用して国別に交渉を進める方式を取り、税率に関しては井上案同様、法権に関しては外国人判事任用を大審院だいしんいんに限ることとして、まず1888(明冶21)年にはメキシコとの間の条約締結に成功した。ところが翌年、改正案の内容がロンドンのタイムス紙上に暴露されると、日本国内には外国人判事任用は憲法違反だと攻撃する声が高まり、民権派と国権派は共同して反対運動を展開し、1889(明治22)年10月、大隈は九州の国権主義の結社である玄洋社の活動家に爆弾を投じられて重傷を負い、ときの黒田内閣は総辞職して条約改正交渉は失敗に終わった。あとを受けた外相青木周蔵あおきしゅうぞう(1844〜1914)は関税協定制・法権回復の案をもってイギリスと交渉にあたった。多少の難色を示しながらイギリスが同意に傾いていったとき、突然、大津事件がおこり、青木は引責辞職して交渉はまたもや中断された。

大津事件

ウラジヴォストークにおけるシベリア鉄道起工式に出席する途中、日本に立ち寄ったロシア皇太子ニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ロマノフ( Alexandrovich Romanov, のちのニコライ2世 Nikolai II, 1868〜1918)が、1891(明治24)年5月、滋賀県大津で警固の巡査津田三蔵(1854〜91)に襲われて負傷した。これが、いわゆる大津事件である。ロシアの報復を恐れて、日本の朝野は色を失い、明治天皇自ら皇太子を見舞った。政府は日本の皇室に対する犯罪の刑罰を適用して犯人を死刑にするよう司法部に圧力をかけたが、大審院(院長児島惟謙こじまこれかた、1837〜1908)はこれを拒否し、部下を指揮して一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下して、司法権の独立を守った。

第2次伊藤内閣になって、外相陸奥宗光むつむねみつのもとで、改正交渉はようやく本格的に軌道に乗った。第五・六議会では、国民協会・大日本協会・立憲改進党などが対外硬派の連合戦線をつくって、外国人の内地雑居などに反対し、政府の改正交渉が「軟弱外交」であるとして政府を攻撃したが、政府はこれをおさえる一方、青木周蔵を駐英公使としてイギリスとの交渉を進めた。イギリスは、シベリア鉄道の敷設を進めていたロシアが東アジアに勢力を拡張することを警戒し、それと対抗する必要もあって、憲法と国会をはじめ近代的諸制度を取り入れ、国力を増大しつつある日本の東アジアにおける国際的地位を重くみて条約改正に応じ、1894(明治27)年7月、日英通商航海条約が締結された。その内容は、領事裁判制度の撤廃・最恵国条款の相互化のほか、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目の税率は片務的協定税率を残すというもので、この点ではまだ不十分であった。イギリスに続いて欧米各国とも新しい通商航海条約が結ばれ、いずれも1899(明治32)年に発効した。

1911(明治44)年、改正条約の満期を迎え、外相小村寿太郎こむらじゅたろう(1855〜1911)は再び交渉を始めたが、日本が日露戦争の勝利を経て国際的地位を高めているだけに列国の反対もなく、関税自主権の完全回復が実現した。

このような経過をみるとき、改正が成功した理由は、立憲政治の実現、近代的法制度の確立や近代産業の発達による国力の増大など、近代国家建設の歩みが着々と実現していったところに求められるが、改正事業が国民的要望に支えられていたことも見逃せない。

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