社会主義運動の高まりと分裂
社会民主主義諸勢力の動きが活発になり、1928(昭和3)年第1回普通選挙で無産政党から8議席を得たが、三・一五事件、四・一六事件による政府の取締り強化によって日本共産党は大きな打撃を受け、社会主義運動は内部対立の激化もあって分裂傾向を深めた。
社会主義運動の高まりと分裂
1922(大正11)年、秘密のうちに結成され、非合法の活動を進めていた日本共産党は、その後、党員の検挙などにより混乱して、1924(大正13)年にいったん解党を宣言したが、1926(大正15)年には再建された。このころになると労働運動も急進化したが、同時にその内部で左右両派(急進派と穏健派)の対立が激しくなり、1925(大正14)年、日本労働総同盟が分裂し、急進派は新しく日本労働組合評議会を結成した。
普通選挙制度が成立すると、労働運動や農民運動を基礎に、社会主義勢力の政治的進出の気運が高まって、合法的な無産政党を組織しようとする動きが盛んになり、1925(大正14)年には農民労働党が結成された。しかし、これは結社禁止処分を受けたので、翌年、共産党系を除いて労働農民党が成立した。ところが、発足後、共産党系勢力がここになだれ込んたことから、内部で左右の対立か激化して、まもなく労働農民党・日本労農党・社会民衆党に分裂し(のちに全国大衆党も結成)、これに応じて労働組合·農民組合もまた3派に分裂した。こうして社会民主主義諸勢力の動きも活発になり、1928(昭和3)年2月に実施された最初の普通選挙では、無産政党各派から8人の候補者が当選し、衆議院に議席を得た。