社会運動の高まり
第1回メーデー(日本/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

社会運動の高まり

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社会運動の高まり

第一次世界大戦直後に革新的雰囲気が高まるなか、1919(大正8)年、国家主義の立場から「国家改造」を主張する人々が集まって猶存社を結成、北一輝・大川周明らを中心に、国家主義革新運動を進めた。その思想は協調外交・軍縮政策や政党政治に不満を抱く軍部の青年将校や中堅将校に大きな影響を及ぼすようになった。

社会運動の高まり

第一次世界大戦を通じてもたらされた世界的な民主主義のの風潮の高まりなどの影響を受けて、第ー次世界大戦が終わるころから、日本国内においてもさまざまな社会運動が勃興した。1918(大正7)年、吉野作造や福田徳二ふくだとくぞう(1874〜1930)・大山郁夫おおやまいくお(1880〜1955)らを中心に黎明会れいめいかいが、同年に東大の学生、卒業生によって東大新人会がつくられ、社会の改革や国家の革新を唱えて、社会科学の研究や労働運動・農民運動と結びついた実践活動を進めた。

労働運動

大逆事件以後、政府の厳しい弾圧のもとで「冬の時代」を過ごしていた社会主義・労働運動も、このような時代の風潮のもとでしだいに活発になった。資本主義の著しい発展に伴って、多数の労働者がつくり出されて大企業に集中したこと、空前の好況にもかかわらずインフレーションによる物価騰貴によって、必ずしも労働者の生計が楽にならなかったことに加えて、ロシア革命や米騒動の影響などが、労働運動の高揚をもたらした原因といえよう。1919(大正8)年には、労働争議件数は労働組合結成数と並んで、これまでの最高に達した。

労慟組合の中心となったのは1912(大正元)年、鈴木文治すずきぶんじ(1885〜1946)らによって結成された友愛会ゆうあいかいであった。友愛会は、初めは労資協調の穏健な立場をとっていたが、1919(大正8)年には大日本労働総同盟友愛会と改称してしだいに急進化し 、1921(大正10)年には日本労働総同盟と改めて、はっきりと階級闘争の方針に転じた。1920(大正9)年の戦後恐慌の到来は、労働運動をますます活発にした。1920(大正9)〜21(大正10)年ころには、大規模な労働争議が各地でおこったが、なかでも、官営の八幡製鉄所のストライキ、神戸の三菱・川崎両造船所のストライキが有名である。1920(大正9)年には、日本最初のメーデーも行われた。労働組合運動は、その後、総同盟の内部に運動方針をめぐって対立が深まった。左派は除名されて、1925(大正14)年、日本労働組合評議会を結成し、日本共産党の影響のもとに急進的運動を展開したが、政府により1928(昭和3)年に解散させられた。

大日本労働総同盟友愛会は、1919(大正8)年、8時間労働制の確立、幼年労働の廃止、普通選挙の実施などの要求をかけた。

農民運動

農村では各地で小作争議が頻発したが、それは単に地主に懇願するだけではなく、小作人が小作人組合を結成し、小作料減免・耕作権確立の要求を中心とする農民運動に発展していった。1922(大正11)年には、賀川豊彦かがわとよひこ(1888〜1960)・杉山元治郎すぎやまもとじろう(1885〜1964)らによって日本農民組合が結成され、農民運動に指導的役割を果たした。政府も小作農の保護・維持対策をはかり、1921(大正10)年には、米穀法を制定して米価の調節につとめ、また政府資金を農村に貸し付けたりした。さらに、1924(大正13)年には小作調定法が制定され、当事者の申し立てにより、裁判所のもとで争議の調停ができるようになった。

女性運動

新しい時代の風潮は、女性の間にも自分たちを従属的地位にしばりつける社会的絆から解放し、地位の向上をはかろうとする思想・運動を生み出した。1911(明治44)年には、平塚らいてうらを中心とする青鞜社せいとうしゃ がつくられ、雑誌『青鞜』が発刊されて女性の覚醒を促した。創刊号に載せられた平塚の巻頭言「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。……私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ」という言葉は、運動の目標をはっきりと示したものであった。青鞜杜の女性たちは、「新しい女たち」と呼ばれて大きな反響をもって迎えられ、初め1000部だった『青鞜』の発行部数は3000部にまで増加した。しかし、彼女たちが自由恋愛や自由結婚を論じたりすることに対して、世間からは日本の伝統的なモラルに反するという非難があびせかけられた。

青鞜社の運動は、文学的思想啓蒙運動を中心とするものであったが、1920(大正9)年には平塚や市川房枝いちかわふさえ(1893〜1981)らを中心に新婦人協会が結成され、婦人参政権運動も行われるようになった。こうした運動により、1922(大正11)年には、女性の政治運動参加を禁止していた治安警察法第5条が改正され、女性の政治演説会への参加が認められた。新婦人協会は、1924(大正13)年には婦人参政権獲得期成同盟会に発展した。また、この間の1921(大正10)年には、山川菊栄やまかわきくえ(1890〜1980)·伊藤野枝いとうのえ(1895〜1923)らにより赤瀾会せきらんかいが結成され、社会主義の立場からの女性運動も展開された。

青鞜の語は、18世紀の半ばにロンドンのモンテーニュ夫人のサロンに集まる芸術家たちの会合に、女性作家などが正装ではない青色の靴下をはいて出席し、盛んに文学・芸術を論じたことから、因習に反する女性たちを嘲笑的に Blue Stocking と呼んだのを模して、森鴎外が命名したという。

社会主義運動

長らく鳴りをひそめていた社会主義運動も、ロシア革命の影響や労働運動の高まりに伴って息を吹き返した。初めは大杉栄(1885〜1923)らを中心とするアナ一キズム( anarchism, 無政府主義)の影響が強く、労慟者の直接行動に頼り、政治闘争を軽視し、ロシア革命を否定的に評価する傾向があった。そののち、しだいに、マルクス主義が社会主義運動の主流を占めるようになり、ロシア革命にならって政治闘争を重視する、いわゆるボリシェヴィズム( Bol’shevism )が優位に立つようになった。そして、多数の社会主義者を政治的に組織して無産政党(社会主義政党)をつくろうとする動きが進み、1920(大正9)年には日本社会主義同盟が成立した。ついで1922(大正11)年には、ソ連のモスクワに本部をおくコミンテルン( Comintern, 国際共産主義組織)の指導のもとに、片山潜かたやません・堺利彦・山川均(1880〜1958)らが中心となってコミンテルンの日本支部として日本共産党が秘密のうちに結成され、君主制(天皇制)の廃止、大地主の土地没収とその国有化、8時間労働制の実現などをかかげ、プロレタリア独故の確立をめざして、非合法活動を展開した。

マルクス主義理論はしだいに知識人・学生・労働運動家の心をとらえるようになり、東大新人会なども、マルクス主義の研究、実践活動の団体としての性格を強めるようになった。こうして、1920年代にはマルクス主義に基づ<社会科学研究が盛んになった。

1923(大正12)年9月1日におこった関東大震災は、政治的、経済的にさまざまな混乱を巻きおこしたが、社会主義運動に対しても大きな痛手を与えることになった。震災の混乱中、社会主義者や朝鮮人が暴動を企てているという流言りゅうげんが広まり、戒厳令がしかれたなかで、住民のつくった自警団や警察・憲兵などにより、社会主義者や多数の朝鮮人が虐殺される事件がおこった 。こうした情勢に直面して、日本共産党の内部では政治方針をめぐって対立がおこり、1924(大正13)年には解党が決議された。

アナーキストとして有名な大杉栄は、震災後の混乱のなかで、愛人で女性運動家の伊藤野枝や甥とともに憲兵大尉甘粕正彦あまかすまさひこ(1891〜1945)によって殺害され、東京の亀戸署内では10人の労働運動家が、軍隊に殺された(亀戸事件)。また、このときに殺害された朝鮮人は3000人とも6000人ともいわれている。

部落解放運動

被差別部落の住民に対する社会的差別を自主的に撤廃しようとする部落解放運動も本格的に展開されるようになり、1922(大正11)年に結成された全国水平社を中心に、運動は運動はねばり強く進められるようになった。全国水平社は、その後、第二次世界大戦後に部落解放全国委員会を経て、部落解放同盟に発展した。

国家主義革新運動

第一次世界大戦直後に革新的雰囲気が高まるなかで、多くの革新団体がつくられ、いろいろな立場の人々がこれに参加していったが、そのなかには国家主義の立場から「国家改造」を主張する人々も少なくなかった。1919(大正8)年、そうした人々が集まって猶存社ゆうぞんしゃを結成し、北一輝きたいっき(1883〜1937)・大川周明おおかわしゅうめい(1886〜1957)らを中心に、国家主義革新運動を進めた。その後、彼らの思想は、協調外交・軍縮政策や政党政治に不満を抱く軍部の青年将校や中堅将校に、しだいに大きな影響を及ぼすようになった。

日本改造法案大綱

北一輝は1919(大正8)年、反日運動の吹き流れる上海において、国家改造案原理大綱(のち日本改造法案大綱と改称)を書きあげた。それは猶存社によって秘密出版され、ひそかに関係者に配布された。その内容は、天臭大権の発動によって戒厳令をしき、クーデタによる天皇中心の国家社会主義的な国家改造を行おうとするもので、私有財産の制限と超過額の没収、大企業の国営化、企業の利益の労働者への配分、普通選挙の実施、華族制の廃止などの断行を唱えるとともに、対外的には「不法に大領土を独占」している国家(イギリスやロシア〈のちのソ連〉を想定)に対して開戦する権利があることを強調している。

関東大震災と朝鮮人虐殺事件

1923(大正12)年9月l日、午前11時58分、関東一帯を見舞ったマグニチュード7.9の大激震とそれに続く大火災は、東京・横浜をはじめとする関東地方南部に甚大な被害を与え、死者・行方不明者は10万人以上、被災者は340万人以上に達した。震災の大混乱のなかでさまざまな流言蜚語ひごが乱れ飛び、戒厳令がしかれて、社会不安はいやがうえにも高まった。朝鮮人虐殺事件はこのような異常な雰囲気のなかで発生した。すなわち、「朝鮮人の暴動」「朝鮮人の放火」などの流言が広がり、恐怖にかられた民間の自警団や警察官らが、朝鮮人と思われる人々をつぎつぎと捕え、暴行を加えたり殺害したりした。そのなかには、誤認された中国人や日本人も含まれていたと思われる。殺された人の総数は正確にはわからないが、3000人とも6000人ともいわれるほどに達した。虐殺事件をおこした自警団員のなかには、裁判にかけられ処罰された者もあったが、多くの者は不問に付され、事件の真相は謎の部分が多い。例えば、事件の核心ともいうべき流言の出所についても、自然に発生したとする説、日本の治安当局が意図的に流したとする説、右翼の一派が流したとする説などがあるが、真相は明らかではない。

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