1「摂関政治」まとめ - 藤原氏北家の発展・摂関政治・国際関係の変化 摂関政治(摂関家) 藤原氏北家の発展
藤原氏系図 ©世界の歴史まっぷ

2. 摂関政治(摂関家)

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摂関政治(摂関家)

藤原良房・藤原基経の時代から、11世紀半ばころまでの、摂政・関白のもとで国政が運営される政治を摂関政治という。摂政・関白を出す家柄を摂関家と呼ぶが、摂関の地位は藤原忠平の子孫に独占され、さらに藤原道長以後はその子孫(御堂流)に限定された。

摂関政治(摂関家)

藤原良房・藤原基経の時代から、11世紀半ばころまでの、摂政・関白のもとで国政が運営される政治を摂関政治という。摂政・関白を出す家柄を摂関家と呼ぶが、摂関の地位は藤原忠平ふじわらのただひらの子孫に独占され、さらに藤原道長以後はその子孫(御堂流みどうりゅう)に限定された。

摂関政治(摂関家) 藤原氏北家の発展 天皇家と藤原氏関係系図(摂関政治)
天皇家と藤原氏関係系図(摂関政治)©世界の歴史まっぷ

摂関家のなかで摂政・関白など最高の地位についたものが藤原氏の「氏長者うじのちょうじゃ」となったが、10世紀末までは藤原兼通ふじわらのかねみち藤原兼家ふじわらのかねいえ藤原道隆ふじわらのみちたか藤原道兼ふじわらのみちかね藤原伊周ふじわらのこれちか藤原道長ら、摂関家内の兄弟や叔父・甥の間で「氏長者」の地位が争われた。結局、道長がこれらの争いに最終的に勝利し、彼とその子藤原頼通ふじわらのよりみちの時代、すなわち11世紀半ばまでの約50年間、摂関家は全盛期を迎えた。道長は自らの娘4人を皇后や皇太子妃とし、一条天皇ごいちじょうてんのうの外祖父として大きな権力を握った。頼通も外伯父がいはくふとして、後一条天皇・後朱雀天皇ごすざくてんのう後冷泉天皇ごれいぜいてんのうの各天皇の摂政・関白となった。

氏長者うじのちょうじゃは、氏の代表者で、平安時代には藤原・源・橘の各氏などにみられる。とくに藤原氏の場合、氏として所有する荘園・邸宅(殿下渡領でんかのわたりりょう)を伝領したり、大学別曹(勧学院かんがくいん)・氏神(春日大社)・氏寺(興福寺)を管理することを通じて、氏全体に大きな力を及ぼしていた。

摂関政治とは、摂政・関白が天皇の権能の一部を代行あるいは補佐して国政を運営する政治体制のことで、天皇が幼小だったり病弱だったりした場合には、摂政が天皇
の権限をほぼ代行し
にかわって政務を行い、天皇が成長すると、関白となってその職務を補佐した。
しかし摂政・関白の地位の背景には、夫婦は当初妻方の家の庇護を受け、生まれた子どもは妻の父(外祖父)やおじが養育・後見するという当時の貴族社会の慣行が存在していたため、摂政・関白として国政を主導していくためには、天皇の外戚(とくに外祖父)であるという条件が重視された。したがって、

関白が天皇から政務に関する諮問を受け、その決定に影響を及ぼした。当初、良房・基経のころの摂政・関白は、太政大臣が行うべき職務という意味合いが強かったが、10世期後半、摂関が常置されるようになると、摂政・関白は、しだいに天皇の外戚がいせき、すなわち母方の祖父(外祖父)あるいはおじ(外伯父・外叔父)が就くべき地位と考えられるようになった。その背景には、この時代の夫婦は、当初は妻方の庇護を受け、生まれた子どもは妻の父やおじが養育・後見するという慣行が存在していた。したがって、10世紀後半以後は、

摂関政治略年表
摂関政治略年表 (詳説日本史研究)

天皇の外戚でない人物が摂関となっても(例えば藤原実頼ふじわらのさねより藤原頼忠ふじわらのよりただら)、権力を十分にふるうことができず、逆に藤原道長ふじわらのみちながが後一条天皇の摂政をわずか1年あまりで辞しているのは、外戚としての地位が確立していれば、必ずしも摂関の地位にこだわらなくてもよかったことを示している。

摂関政治の時代には、律令国家の官制が大きな枠組みとして残っていたので、天皇及びこれを代行・補佐する摂政・関白と太政官が中心となって政治が運営された。すなわち、重要な政務については、天皇や摂関が太政官の幹部職員である公卿(議政官ぎせいかん)による合議(陣定じんのさだめ)などを参考にして決裁し、それ以外の事項については、公卿が処理していた。
このような政務のうち、とくに叙位(位階の授与)・除目じもく(官職の任命)に摂関は大きな権限をもっており、また公卿や皇后・東宮・太上天皇など(院宮王臣家)にも官吏を推挙する権利があったため、この時代には皇族や摂関をはじめとする上流貴族に権力が集中した。また経済的な利権の大きい受領ずりょうの地位を希望する者からの貢献物などで、摂関などには莫大な富が集中した。
一方、摂関家や一部の上流貴族の範囲からはずれた多数の官人たちは、受領となって富を蓄積する道を選んだり、特定の学問や技能によって朝廷や摂関家に仕える道を選ぶようになり、次第に貴族層の家柄や上下関係が固定していくことになった。

日記と儀式書

摂関政治の時代になると、積極的に新しい政策をかかげて国政を運営していくというよりは、朝廷の行事や儀式を先例通りに行っていくことが貴族としての最も重要な職務と考えられるようになった。そこで、日常の政務や儀式の作法を細かく記録して、本人や子孫の参考にするため、貴族は日記をつけるようになった。この時代の貴族の日記としては、藤原道長の『御堂関白記みどうかんぱくき』がとくに有名だが、そのほかにも道長と同時代の貴族の日記として、藤原実資ふじわらのさねすけの『小右記しょうゆうき藤原行成ふじわらゆきなりの『権記ごんき』などがある。また、朝廷の儀式や年中行事の作法を記した儀式書も、この時代には数多くつくられた。源高明の『西宮記さいきゅうき』や藤原公任ふじわらのきんとうの『北山抄ほくざんしょう』が代表的なもので、これらの日記や儀式書を読むことによって、摂関政治の時期の政務や儀式の様子を詳細に知ることができる。

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