南蛮貿易とキリスト教
南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。1549(天文18)年、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮(宗麒)らの大名の保護を受けて布教を開始。当時ヨーロッパでは宗教改革によるプロテスタントの動きが活発であったが、カトリック側も勢力の挽回をはかって、アジアでの布教に力を入れる修道会も多かった。その一つがイエズス会である。日本では当時キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼び、宜教師をポルトガル語のパードレから転じたバテレン(伴天連)の名で呼んだ。
南蛮貿易とキリスト教
1543(天文12)年にポルトガル人を乗せた中国船が九州南方の種子島に漂着した(1542(天文11)年とする説もある)。この船は、密貿易商人で倭寇の頭目でもあった中国人王直(?〜1559)のもち船で、その船がこの海域を航行していたのは、九州の五島・平戸が当時王直の活動拠点となっていたためである。ポルトガル人はこのような密貿易商人・倭寇の船に同乗し、漂着したのであるが、これがヨーロッパ人が日本に来た最初となった。このとき、島主の種子島時尭(1528〜79)はポルトガル人のもっていた鉄砲(火縄銃)を求め、家臣にその使用法と製造法を学ばせた。これを契機に、ポルトガル人は毎年のように九州の諸港に来航し、日本との貿易を行った。またスペイン人も、おくれて184(天正12)年、肥前の平戸に来航し、日本との貿易を開始した。
鉄砲の伝来
ヨーロッパ側の史料によると、1542年に3人のポルトガル人がジャンクに乗って種子島に漂着したというが、日本側の史料である僧文之玄昌(1555〜1620)の『鉄砲記』には、天文12年8月25日(1543年10月5日)に2人のポルトガル人の長に率いられ100余人の乗り組んだ船が流れ着いたとあることからこれまではどちらかといえば1543年説が有力視されてきた。ところが、その後に相ついでみつかった『島津貴久記』や『歴代鎖西志』がいずれも鉄砲の伝来を1542年としていることから最近は1542年説が再び注目されてきている。このとき、種子島時尭が求めた火縄銃は口径16ミリ、銃身718ミリで、これを種子島銃と呼ぶようになった。伝説によると、鋳物師の八板金兵衛はポルトガル人船長に娘の若狭を人身御供に献じ、ついにその製法を教わったというが、こののち鉄砲はたちまち日本国中に広まった。
当時の日本では、ポルトガル人やスペイン人を南蛮人、その船を南蛮船と呼び、彼らとの貿易を南蛮貿易といった。
南蛮人は、鉄砲・火薬や中国の生糸などをもたらし、16世紀なかごろから飛躍的に生産が増大した日本の銀などと交易した。ポルトガル人らの貿易は主に肥前の松浦・大村・有馬氏や豊後の大友氏、薩摩の島津氏などの領内で行われ、松浦領では平戸・大村領では横瀬浦・福田・長崎、有馬領では口之津、大友領では府内、島津領では鹿児島・山川・坊津などが主要な港であった。とくに平戸・長崎・府内は貿易が盛んで、京都・堺・博多などの商人も多く参加した。当時、その伝来地にちなんで種子島(銃)と呼ばれた鉄砲は、戦国大名の間に新鋭武器として急速に普及し、まもなく国産化にも成功して.和泉の堺や紀伊の根来・雑賀、近江の国友などで大量に生産された。足軽鉄砲隊の登場は、武士の騎馬戦を中心とする戦法をかえさせ.、また防御施設としての城の構造も鉄砲戦に耐えうるものに変化させた。
南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。1549(天文18)年、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ=ザビエル(1506〜52)が鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮(宗麒、1530〜87)らの大名の保護を受けて布教を開始した。当時ヨーロッパでは宗教改革によるプロテスタントの動きが活発であったが、カトリック側も勢力の挽回をはかって、アジアでの布教に力を入れる修道会も多かった。その一つがイエズス会である。日本では当時キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼び、宜教師をポルトガル語のパードレから転じたバテレン(伴天連)の名で呼んだ。
ザビエルの布教活動
ザビエルは1506年にイベリア半島の小国ナバラ王国(その数後スペインに併合)の貴族の子として生まれた。パリに留学中、イグナティウス゠ロヨラ(Ignatius Loyola、1491〜1556)と出会ってイエズス会に参加し、1541年、ポルトガル国王の要請に応じて布教のためインドのゴアに赴いた。1547年マラッカで日本人アンジロ一と出会ったことがきっかけとなって日本行きを決意し、2年後アンジローらとともに鹿児島に上陸した。その後、平戸・山口·京都・豊後府内を歴訪したザビエルは、1551年、2年3カ月にわたる日本での布教活動を終え、いったんゴアにもどるが、早くも翌年には中国布教を志して中国に出発する。しかし.上陸を目前にして病にかかり、上川(サンチュアン)島で46歳の生涯を閉じた。ザビエルが東アジア布教に果たした功績は大きく、1622年に聖人に列せられ、1904年、「世界の伝道事業の保護者」とされた。
イエズス会
イエズス会はスペインの貴族イグナティウス゠ロヨラが、1534年にザビエルら同志7人とともにパリで創立したカトリックの教団の一つで、これに属する人がジェズイット(Jusuite)である。したがってジェズイット会ともいい.中国では耶蘇会とあてたが現在の日本での公称はイエズス会となっている。会は1540年に教皇パウロ3世(パウルス3世(ローマ教皇)に公認され、会員は軍隊的訓練を受け、厳格な規律を守り、教皇を首長と仰いで旧教勢力の拡大、新教撲滅の信念に燃えて積極的な布教活動に乗り出した。
その後宣教師は相ついで来日し、南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(神学校)などをつくり、熱心に布教につとめた。ザビエルのあと、ポルトガル人宣教師ガスパル゠ヴィレラ(1525〜72)や『日本史』の著者として知られるルイス゠フロイス(1532〜97)らが九州を中心に近畿・中国地方の布教につとめ、キリスト教は急速に広まった。信者の数は1582 (天正10)年ころには、肥前・肥後・壱岐などで11万5000人、豊後で1万人、畿内などで2万5000人に達したといわれる。
ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶがそのうち、大友義鎮(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(如水、ドン゠シメオン、1546〜1604)·黒田長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。
信長に仕えたアフリカ人
イエズス会宜教師が、ポルトガル人によってアフリカから連れてこられた黒人奴隷を初めて信長に会わせたとき、織田信長はからだに墨を塗っているものと思い込み、それが肌の色であると説明されてもなかなか信じようとしなかったという。信長にとっては世界の広さを痛感させられた、まさにカルチャーショックであったに違いない。その黒人はぎこちないながらも日本語を話せたことから、信長に気に入られ、宣教師のはからいで信長に仕えることになった。黒人は本能寺の変のときも刀を手にして明智方の兵とよく戦ったが、ついに捕えられてしまった。明智光秀の判断で命を助けられ、宜教師のもとに返されたらしいが、その後の消息については不明である。本能寺の変という日本史の舞台に、このような大航海時代にもてあそばれた一人のアフリカ人が居合わせていた事実を私たちも記憶の一隅にとどめておく必要があろう。