国文学の発達
中古文学(平安時代の文学)漢詩・漢文が引き続き栄えるとともに、初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂され、和歌が漢詩と対等の位置を占めた。当時の公式文書は漢文であったが、平仮名の和文による表現が盛んにはじまり、紀貫之の『土佐日記』が書かれたのに続き、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部 の『源氏物語』など古典文学の代表作と言える作品が著された。
国文学の発達
国文学の発達表
時代 | 物語文学 | 日記・随筆 | 詩歌・その他 | |
伝奇物語 | 歌物語 | |||
『竹取物語』 | 六歌仙(僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主) | |||
10世紀 | 『宇津保物語』 | 『伊勢物語』 | 『土佐日記』[紀貫之] | 『古今和歌集』 [紀貫之 ら] |
『落窪物語』 | 『大和物語』 | 『蜻蛉日記』[藤原道綱母] | 『和名類聚抄』 [源順] | |
11世紀 | 『源氏物語』 [紫式部] | 『和漢朗詠集』 [藤原公任] | ||
『栄華物語』[赤染衛門?] | 『枕草子』 [清少納言] | 八大集(905〜1205) | ||
『和泉式部日記』[ 和泉式部] | 『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』 | |||
『紫式部日記』 [紫式部] | ||||
『更級日記』 [菅原孝標女] |
文字
中国の文字である漢字によって、日本語を表現しようとする努力は、漢字の受容直後から始まった。当初は、人名・地名などの固有名詞を漢字の音を用いて表記する試みがなされ(埼玉県 稲荷山古墳出土鉄剣 銘の「獲加多支鹵( 稲荷山古墳出土鉄剣)など)、奈良時代には漢字の音訓を用いて、和歌などを書き記す万葉仮名が発達した。8世紀後半以降には、この万葉仮名で書状などの普通の文章を記す例もみられるようになる。
平安時代に入ると万葉仮名の字体が崩されて草書体となり(草仮名)、さらに簡略化されて平仮名が成立し、主に宮廷女性によって書状や歌のやりとりに用いられた。
片仮名は、僧侶が漢文で書かれた仏教の経典などを訓読するために考案したもので、万葉仮名の漢字のごく一部を取り出し、その音を用いて漢文の文章の傍訓や送り仮名を記した。これらの仮名文字は、11世紀の初めになると字形もほぼ一定し、上記のような分野で盛んに用いられるようになった。
一方、公的な政治の世界を中心とする男性貴族の社会では、依然として漢字・漢文が正式なものとして用いられたが、『御堂関白記』などの日記では、正規の漢文とはかなり文体の異なる日本化した漢文が書かれるようになる。
仮名の音節
『万葉集』の仮名には清音と濁音の別があり、また、エキケコソトノヒヘミメヨロの13音が2類にわかれ、合計87の音節があった。この区別は奈良時代から乱れ始め、9世紀初めの延暦年間に習字の手本として用いられた「あめつちの詞」では、
「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峯)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(育せよ)えの江を(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)」
という48文字となった。なお「いろは歌」はこれから「江」を除いた47字からなっており、平安初期に存在していたと考えられるア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別がされていない。
「いろは歌」は、空海の作ともいわれるが、おそらく平安時代の中期以後のものであろう。
また「五十音図」は、インドの梵字の知識をもとに日本語の音節組織を図式化したものである。吉備真備の作ともいわれるが、これには真言宗の僧侶が関係したと考えられる。
このように、日本語を書き表すための文字や文体の工夫が進んでいくにしたがい、それらを用いて日本人の感覚をより生き生きと表現することが可能となり、和歌をはじめとする国文学が発達した。
和歌
和歌については、漢詩文が盛んだった9世紀前半にも私的な宴会などでは和歌が詠まれていたが、9世紀後半になると六歌仙(僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主)らの歌人が活躍し、10世紀に入ると、905(延喜5)年に最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立する。
『古今和歌集』には、中心的編者である紀貫之の「仮名序」とともに、漢文の「真名序」があり、またその構成にも9世紀の勅撰漢詩文集の影響がみられる。これ以後、和歌は漢詩とともに宮廷の行事のなかでも重要な位置を占め、歌合せなどが盛んに開催されるようになり、勅撰和歌集も相次いでつくられた(これらを総称して三代集、八代集という)。
物語
物語では、かぐや姫の説話を題材とした『竹取物語』をはじめとして、貴族社会の様子を描いた『宇津保物語』継子物語の先駆である『落窪物語』などが10世紀までにつくられ、また歌物語としては『伊勢物語』『大和物語』などが生まれた。さらに紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京するまでを仮名でつづった『土佐日記』は、
「をとこ(男)もすなるにき(日記)といふものを、をむな(女)もしてみむとてするなり」
という書き出しで始まっており、当時の仮名文字及び仮名文学の位置を示している。
摂関政治が全盛期を迎えた10世紀末以降になると、仮名文学は宮廷女性によっていっそう洗練されることとなった。これは中央での相対的に安定した政治状況のなかで、皇后など地位の高い女性のもとに才能豊かな女房(侍女)が集まり、一種の文芸サロンを形成したためである。なかでも一条天皇の皇后藤原定子に仕えた清少納言の随筆『枕草子』と、藤原道長の娘で同じく一条天皇の中宮藤原彰子に仕えた紫式部 の長編小説『源氏物語』は、その最高峰ともいえる作品である。このほか、藤原道綱母の『蜻蛉日記』『紫式部日記』『和泉式部日記』、菅原孝標女の『更級日記』などの日記文学には、女性特有の細やかな感情が表されている。
紫式部日記の女房観
『紫式部日記』には、中宮彰子・皇后定子・斎院選子内親王(村上天皇の娘)らに仕えた女房の容姿や性格、才能などを具体的にあげて批評した箇所がある。
和泉式部については、手紙のやりとりは巧みだが、歌というものが十分にはわかっていないとし、『栄花(華)物語』の作者赤染衛門については、風格のある歌を詠むが、格別優れた歌人とはいえない、となかなか手厳しい。とりわけ清少納言については、漢文学の知識をひけらかして得意になっているのは鼻もちならず、このような軽薄な人の将来はろくなことがないと痛烈であるが、これは紫式部 と清少納言が、彰子・定子という対抗関係にあった后に仕えた女房だったことも影響していると考えられる。
これに対して紫式部 本人は、幼い頃から父の教えで学問を身につけてきたが、その知識をひけらかすことなく、目立たないように心がけているとしており、当時の貴族女性と漢文学との複雑・微妙な関係が示されていて興味深い。
勅撰和歌集
三代集
- 『古今和歌集』905年 紀貫之ら
- 『後撰和歌集』961年 清原元輔ら
- 『拾遺和歌集』996? 藤原公任?
八大集(三代集に下の五つを加える)
- 『後拾遺和歌集』1086年 藤原通俊ら
- 『金葉和歌集』1126年 源俊頼ら
- 『詞花和歌集』1141年 藤原顕輔ら
- 『千載和歌集』1187年 藤原俊成ら
- 『新古今和歌集』1205年 藤原定家ら
おもな著作物一覧
- 『古今和歌集』 紀貫之 ら
- 『和漢朗詠集』 藤原公任 ら
物語
- 『竹取物語』未詳
- 『伊勢物語』未詳
- 『宇津保物語』未詳
- 『落窪物語』未詳
- 『源氏物語』 紫式部
- 『土佐日記』 紀貫之
- 『蜻蛉日記』 藤原道綱母
- 『枕草子』 清少納言
- 『和泉式部日記』 和泉式部
- 『紫式部日記』 紫式部
- 『更級日記』 菅原孝標女
その他
- 『和名類聚抄』 源順