庶民文芸の流行
室町時代には、民衆の地位が向上したことにより、武士や公家だけでなく、民衆が参加し楽しむ文化が生まれた。狂言は、題材を民衆の生活に求め、せりふも日常の会話が用いられており当時の民衆の世界をよく反映している。この時代に都市や農村では、華やかな姿をした人々が踊る風流踊りが盛んとなった。この風流踊りが念仏踊りと結びついて盆踊りとなった。
庶民文芸の流行
室町時代には、民衆の地位が向上したことにより、武士や公家だけでなく、民衆が参加し、楽しむ文化が生まれたのも大きな特徴である。
能・狂言
能も上流社会に愛好されたもののほか、より素朴で娯楽性の強い能が各地に根をおろし、祭礼などの際に盛んに演じられた。このころ、能の合間に演じられるようになった狂言は、風刺性の強い喜劇として、とくに民衆にもてはやされた。狂言も能と同じく猿楽、田楽からわかれた演劇であったが、能が歌舞の側面を重視したのに対し、狂言は主に物まね芸の側面を受け継いだ。狂言は、その題材を民衆の生活などに求め、せりふも日常の会話が用いられており当時の民衆の世界をよく反映している。
曲舞・古浄瑠璃・幸若舞
庶民にもてはやされた芸能としては、このほかに鼓の伴奏でリズミカルに歌う曲舞、曲舞の一つで叙事的な語り物で好評を博した幸若舞、同じく語り物の一つで江戸時代の浄瑠璃の原型となった古浄瑠璃、主に男女の愛情を歌った短詩型の民間歌謡である小歌などがあり、小唄の歌集として『閑吟集』が編集された。
古浄瑠璃
浄瑠璃の名称は、足利義経と浄瑠璃姫の恋物語を語ったというところからきている。現在の浄瑠璃は、元禄時代ころのものを受け継いでいるが、古浄瑠璃とは1686(貞享3)年に発表された近松の「出世景清」以前のものを指し、現在は曲節を失って、音楽としては聞けなくなったものを指していう。その数約600余りといわれ、内容・表現ともに説話的であって、劇的構成をもつまでには進歩していない。
幸若舞
曲舞の芸能集団のうち最も有力であった幸若座を中心に演じられたのが幸若舞である。15世紀の武将で幼名を幸若丸といった桃井直詮が始めたので幸若舞と称するようになったという伝承もあるが疑わしい。かの織田信長も、幸若舞をこよなく愛した一人であり、桶狭間の戦いの前夜に信長が歌った「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生をえて滅せぬ者のあるべきか」という有名な歌詞も、幸若舞の曲の一つ『敦盛』の一節である。
連歌
花の下連歌会:桜の花の下で庶民が自由に参加できる「花の下連歌会」が流行。 新詳日本史―地図資料年表
連歌では、応仁期のころ宗祇がでて芸術性の高い正風連歌を確立し、『新撰菟玖波集』を撰集した。また、宗祇が弟子の肖柏(1443〜1527)・宗長(1448〜1532)らと吟じた『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』は連歌の傑作として後世の規範となった。ー方これに対し、宗鑑(?〜1539?)はより自由な気風をもつ俳諧連歌をつくり出し、『犬筑波集』を編集した。連歌は、これを職業とする連歌師が各地を遍歴して普及につとめたので、地方の大名や武士だけでなく、民衆の間でも愛好されて流行した。
御伽草子
風流踊り:風流とは華やかに飾りたてることを意味する。この時代に都市や農村では、華やかな姿をした人々が踊る風流踊りが盛んとなった。この風流踊りが念仏踊りと結びついて盆踊りとなった。 新詳日本史―地図資料年表
また、大いに流行した物語に御伽草子があった。御伽草子には、絵の余白に当時の話し言葉で書かれている形式のものが多くみられ、読むもの、話すものであり、絵をみて楽しむものでもあった。『文正草子』『物くさ太郎』『一寸法師』『浦島太郎』『酒呑童子』など、御伽草子のなかには現在でもよく知られている話が多い。
盆踊り
今日なお各地で盛んに行われている盆踊りも、この時代から盛んになった。祭礼や正月・盆のときなどに、都市や農村で種々の意匠をこらした飾り物がつくられ、華やかな姿をした人々が踊る風流(風流踊り)が行われていたが、この風流と念仏踊りが結びついて、しだいに盆踊りとして定着した。これらの民衆芸能は、多くの人々が楽しみ、共同で行うことが一つの特色であり、当時、茶の連歌の寄合も多く催された。このような共同性は、当時発達しつつあった惣村や一揆の理念とも共通するものである。