アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

アンティゴノス朝マケドニア


アンティゴノス朝マケドニア (紀元前276〜紀元前168)

アレクサンドロス3世のディアドコイの一人、アンティゴノス1世モノフタルモス(隻眼王)の子孫がマケドニア本国と小アジアの一部とギリシアを支配したヘレニズム王朝。アンティゴノス2世がマケドニアに王朝を確立。首都:ペラ。ヘレニズム3国のひとつ。共和政ローマとの第三次マケドニア戦争(紀元前168年)に敗れて滅亡し、その地は紀元前148にローマの属州となる。

アンティゴノス朝マケドニア

アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

オリエントと地中海世界

ギリシア世界

ヘレニズム時代

アンティゴノス朝マケドニアは本国と小アジアの一部とギリシアを支配したが、ギリシアではアカイア同盟・アイトリア同盟などの新興都市連合の勢力が活発になり、反マケドニア運動を続けた。(小アジアではペルガモンがやがて独立し、ヘレニズム文化の隆盛がみられた。またケルト人も侵入してガラテアに定着した。)

ヘレニズム時代 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

略年表

  • 紀元前306年:アンティゴノス1世モノフタルモス、王を名乗る
  • 紀元前301年:イプソスの戦い
  • 紀元前294年:デメトリオス1世ポリオルケテス、マケドニア王に即位(デメトリオス1世(マケドニア王))
  • 紀元前277年:アンティゴノス2世ゴナタス、ガリア人を破る
  • 紀元前274年:エピロス王ピュロスとの戦い
  • 紀元前214年:第一次マケドニア戦争
  • 紀元前200年:第二次マケドニア戦争
  • 紀元前195年:ナビス戦争
  • 紀元前192年:ローマ・シリア戦争
  • 紀元前171年:第三次マケドニア戦争
  • 紀元前168年:滅亡

歴代君主

  • アンティゴノス1世(前306年-前301年)
  • デメトリオス1世(マケドニア王) (紀元前294年 – 紀元前288年)
  • アンティゴノス2世(マケドニア王) (紀元前276年 – 紀元前239年)
  • デメトリオス2世(マケドニア王) (紀元前239年 – 紀元前229年)
  • アンティゴノス3世 (紀元前229年 – 紀元前221年)
  • ピリッポス5世 (紀元前221年 – 紀元前179年)
  • ペルセウス (マケドニア王)(紀元前179年 – 紀元前168年)

参考 アンティゴノス朝 – Wikiwand

ピリッポス5世

第一次マケドニア戦争(紀元前215年 – 紀元前205年)

ギリシアでの地位を確立したピリッポス5世は、アドリア海湾岸部でのローマの影響力を阻害しようと、海路よりイリュリアに進攻を繰り返し、イリュリアを支配下にする。

第2次ポエニ戦争を利用して紀元前215年にはローマに進攻中のカルタゴの武将ハンニバルと同盟を結び、ローマと対抗が、紀元前211年にローマがアイトリア同盟と同盟関係となるとピリッポス5世の影響力は次第に衰えていき、さらにローマの支援を受けたペルガモンのアッタロス1世の進攻を受けるなど劣勢となるが、勢力を増してきたアカイア同盟の指導者フィロポイメンに近づいてローマの隙を突いて紀元前207年にはペルガモンの勢力をギリシア本土から一掃、アイトリア地方の宗教的な中心地であるテルムムを陥落させ、アイトリアの諸都市を屈服させ、ローマの息のかかったギリシア諸都市とフォエニケの和約を結び、有利に戦局を進める事に成功した。
ピリッポス5世はこれを機にセレウコス朝シリアのアンティオコス3世と共同でまだ若年のプトレマイオス朝の王プトレマイオス5世の支配下にあったエーゲ海地方に進攻するも、紀元前201年、マケドニアの攻勢を恐れるペルガモン、ロドスなど他のギリシア諸都市に海戦で破れる。同時期に西方のローマもカルタゴを下した。

第二次マケドニア戦争

第2次ポエニ戦争が終わり、カルタゴの脅威がなくなると共和政ローマとの関係に軋轢が生じ、紀元前200年にローマがマケドニアがギリシア諸都市の安全を脅かしていると干渉、ギリシアに軍団の派兵を決めると武力で対抗、しかし紀元前197年のキュノスケファライの戦いでローマの指揮官フラミニヌスに致命的な敗北をする。

戦争後

戦後、マケドニアとローマとの間で条約が結ばれるが、マケドニアは1000タレントの賠償金を支払わされ、息子・デメトリオスは人質としてローマに送られた。
その後はローマと親睦を深めスパルタと対立し、スパルタ王ナビスがローマと戦った際にはローマ側を支援した。またピリッポス5世は、ローマとセレウコス朝シリアのアンティオコス3世との対立にもローマ側として支援している。この支援の見返りとして、紀元前190年にスキピオ・アフリカヌスとスキピオ・アシアティクスがマケドニアを訪問した際に残りの賠償金を免除され、デメトリオスもローマの人質から解放された。

ピリッポス5世はその後、財政再建などマケドニア国内の再構築に着手する。しかしこれがローマの警戒心を促し、ペルガモンなどの近隣諸都市からの要請により、再びローマの内政干渉を受けてしまう。廃位を憂慮したピリッポス5世はバルカン半島の影響力を軍事、外交によって拡張しようとするが、親ローマ派になっていた息子デメトリオスによって阻害されてしまう。やがてローマよりマケドニア王への即位を促された弟デメトリオスと王位継承者である兄ペルセウスとの間で確執が起こり、ペルセウスにけしかけられたピリッポス5世はデメトリオスを処刑した。この件を深く悔やんだピリッポスは健康を害するようになり、1年後アンフィポリスにて没した。

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