サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路
ヨーロッパの巡礼路 青線: フランスの主要巡礼路。 赤線: スペインの主要巡礼路。Source Wikipedia

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 : カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群


サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 : カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群

1993年に世界遺産に登録された「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」は、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの棺を目指す、スペイン国内の複数の巡礼路からなる。イェルサレム、ローマと並ぶキリスト教徒の最も重要な巡礼地である。これまでの内陸ルートに新たに海岸沿いのルートが追加され、同時に名称も変更された。

サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 : カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群

文化交流の道でもあった巡礼路

ピレネー山脈からスペイン北部を東西に貫くサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路。カミノ・フランセス(フランス人の道)のほかスペイン北部の巡礼路が登録されている。

世界遺産の中でも珍しい「道の遺産」で、聖ヤコブへの信仰が11世紀ごろにヨーロッパ中に広がると、この道を通じて文化交流が行われ、ロマネスク様式が広がる手助けにもなった。沿道に残る約1800もの建物には、多くのロマネスク様式の修道院や聖堂が含まれている。巡礼は12世紀に最盛期を迎え、民間人だけでなく王侯貴族も行った。

レオン大聖堂(スペイン)
レオン大聖堂(スペイン)Wikipedia

参考 くわしく学ぶ世界遺産300<第2版>世界遺産検定2級公式テキスト

概要

サンティアゴ・デ・コンポステーラには、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされ、ローマイェルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。
フランスでは、「トゥールの道」、「リモージュの道」、「ル・ピュイの道」、「トゥールーズの道」の主要な4つの道がスペインに向かっている。
スペインでは、ナバラ州からカスティーリャ・イ・レオン州の北部を西に横切り、ガリシア州のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう「フランスの道」が主要である。

世界遺産

巡礼路のうちスペイン国内のピレネー山脈からサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に至る約738kmの道程は、1993年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」としてユネスコの世界遺産に登録された。
紀伊山地の霊場と参詣道と並び、世界でも珍しい道の世界遺産としても知られており、和歌山県とガリシア州とは永続的な友好関係を確立するため、正式に両古道の姉妹道提携を1998年に締結した。
登録された道は、後述の「フランスの道」と「アラゴンの道」に相当する。2015年に拡大登録されるとともに、登録名称が変更された。フランスの巡礼路の一部と途上の主要建築物群については、「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」として1998年に別途登録された。
また、サンティアゴ・デ・コンポステーラの市街地も「サンティアゴ・デ・コンポステーラ(旧市街地)」として別途登録されている。

歴史

伝説によれば、イエスの十二使徒のひとり聖ヤコブがイェルサレムで殉教したあと、その遺骸はガリシアまで運ばれて埋葬されたとされる。
813年、現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラで、隠者ペラギウスは天使のお告げによりヤコブの墓があることを知らされ、星の光に導かれて司教と信者がヤコブの墓を発見したとされる。これを記念して墓の上に大聖堂が建てられた。

サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の記録は、951年のものが最古である。11世紀にはヨーロッパ中から多くの巡礼者が集まり、最盛期の12世紀には年間50万人を数えた。こうした巡礼の広がりは、中世ヨーロッパで盛んだった聖遺物崇拝によるところが大きい。
また、巡礼は当時イベリア半島を支配していたイスラム教国へのレコンキスタとも連動した。ヤコブはレオン王国などキリスト教国の守護聖人と見なされ、「Santiago matamoros」(ムーア人殺しのヤコブ)と呼ばれるようになった。キリスト教国の兵士は戦場で「サンティアゴ!」と叫びながら突撃したという。キリスト教国の諸王は巡礼路の整備や巡礼者の保護に努めた。
巡礼は、スペインとスペイン外のヨーロッパの文化をつなぐことにもなった。巡礼者の中には建築家もおり、彼らはヤコブに捧げるために、巡礼路に沿った都市にロマネスク建築による多くの教会や修道院を建てた。
レコンキスタの完了や、百年戦争三十年戦争による混乱によって衰えた時期もあったが、巡礼は現在まで続いている。現在の巡礼者のスタイルは、徒歩、自転車、車などさまざまである。また、ガリシア州政府は観光の目玉として巡礼路をアピールしている。

Wikipediaより

11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった。イベリア半島の住民はほとんど参詣せず、巡礼に参加するのは一部の上層階級の人であった。巡礼の道は「フランス人の道」と呼ばれていた。聖ヤコブはスペイン人にとってそれほど重要な聖人でなく、レオン王国は聖イシドロ、カスティーリャでは聖ミリャン、アラゴンでは聖ゲオルギウスが守護聖人とされており、民衆の一番大切な信仰対象は聖母マリアであった。
フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。アルフォンソ6世(カスティーリャ王)が1085年にトレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナールに任せた。
アルフォンソ自身は「二宗教の皇帝」と自称したように、イスラームとの共存を考えており、クリュニーや改革派教皇が称揚する十字軍的な聖戦概念とは、ずれがあった。改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし、「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張した。これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世(ローマ教皇)がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した。アルフォンソはクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした。アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れた。
1090年のレオン教会会議で西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けた。

巡礼路

フランスの道 (Google Map)

サン=ジャン=ピエ=ド=ポルからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでは「フランスの道」と呼ばれ、巡礼路でもっとも重要な道である。

広告