ガイウス・マリウス マリウスの軍制改革
ガイウス・マリウス 像(Glyptothek, Munich 蔵) ©Public domain

マリウスの軍制改革


マリウスの軍制改革
紀元前1世紀にガイウス・マリウスによって施行されたローマ軍における改革。この改革により軍事だけでなくローマ社会でも大幅な変革が起こり、やがてはローマ社会の覇権的性格、ローマ軍の侵略的傾向を促し、間接的に帝政ローマを創設する土台を作り上げた。

マリウスの軍制改革

ガイウス・マリウス

マリウスの改革以前

共和政ローマ・ローマ市民権を持つ市民の義務

  • 兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属していなければならない。
  • 兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならない。
  • 兵役の際に必要な武具は自前で購入しなくてはならない。

兵の弱体化

2人の執政官(コンスル)が日毎に交代で軍団の総指揮を執る。
執政官(コンスル)は元老院に属し、必ずしも戦術に長けている人物とは限らず、兵士も市民の義務として自発的に従軍する市民兵であり、戦闘に慣れているというわけではなかったため、ポエニ戦争など、戦闘を勝ち抜いた兵士の世代が変わると兵の弱体化が目立つようになった。

領土拡大による問題

ポエニ戦争で領土を拡大したローマは、長引く戦争での農地の荒廃と戦争によって獲得した属州からの安価な穀物の流入、征服事業での奴隷を用いた貴族の大土地所有(ラティフンディウム)が拡大したことによる中小自作農の没落を招いていた。
やむを得ず「3000セステルティウス」という資産条件を切り下げてまで徴兵対象を拡大せざるを得ず、これによって兵士の質の低下に拍車がかかった。
その状況を危惧したグラックス兄弟は中小自作農救済のための改革を行おうとしたが、貴族層の反発により改革は不徹底に終わる。

ガイウス・マリウス

紀元前108年、元老院の外交、軍事指導力の低下と弱体化したローマ軍は勝利を得られず、ヌミディア王・ユグルタの脅威を前に、ノウス・ホモ(共和政ローマ後期において父祖に高位の公職者を持たず、執政官に就任した者。)・ガイウス・マリウスがローマの執政官選挙に出てユグルタ戦争の早期解決を訴えてローマ市民の支持を受け、紀元前107年、執政官となる。

しかし、もうひとりの執政官が軍をガリアに進攻したキンブリ族討伐に向かわせたため、マリウスには兵が足りず騎兵は皆無となり、目前の危機を解決するために軍制改革に着手する。

マリウスの軍制改革

志願兵制度の採用

自前で武具を賄えない貧民階級に注目

  • 国が武具を支給する。
  • 戦闘に従事する者の給料も国が支給する。
  • 従軍期間を25年とする。
  • 退役後、兵士たちに土地を与える。また司令官より年金を給付される(士官、下士官の者は10倍から25倍の金額、土地を与えられたようである)。
  • 従来からの司令官が指揮可能な軍の制限(司令官1人が指揮できるのは2個軍団まで)を撤廃する。

「兵士への給料」は、従来においても「働き手を兵士に取られた農家への損失補填」として行われており、改革の前後でその金額は変わりなく、徴兵制を志願制に変えただけの事であったが、この単純な改革によって、困窮した農民は兵役から解放され、無産者達は職を得る事になった(一家の働き手を取られた農家への損失補填としては不足していた金額であっても、無産者にとっては有難い収入源となった)。

これにより、ローマ軍は今までの市民からなる軍隊から職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌を遂げた。

軍制内部組織の改革

  • 従来のハスタティ、プリンキペス、トリアリイの3構成のみのレギオ(軍団)を廃止、各自のレギオは鷲をシンボルとした軍旗を掲げる。
  • 軽装歩兵(弓兵・投石器兵)と軽装騎兵は同盟国・同盟部族からの援軍(アウクシリア)で構成する。
  • 軍隊内組織は以下の通りとする。
    • 1つのレギオ=10のコホルス(大隊)
    • 1つのコホルス=6つのケントゥリア(百人隊・中隊)
    • 1つのケントゥリア=10のコントゥベルニウム(小隊)

ケントゥリアの定員を80人と定め、指揮者としてのケントゥリオ(百人隊長)の地位を向上させた。また10分割された8人のコントゥベルニウムは1つのテントを共同で使うものとした。このケントゥリアを共に行動し、戦闘、共同生活を行う者達として独立した戦闘部隊の核として作り上げた。また行軍に際して兵士は各自の荷物を運ぶ事が前提となり、訓練では全ての重量を持った長距離の行進が重要視された(マリウスのロバ)。兵站の軽減化によりローマ軍の機動力が増す事となった。

マリウスの軍勢改革の効果

軍事面での効果

志願兵制度の前節の項目1.と2.により兵装が支給された事により軍隊の規格化が進み、また自らの職業(大抵は農業)を持つパートタイムによるアマチュアの市民兵から、規律を重んじ過酷な訓練にも耐えうるプロフェッショナルの戦闘集団となった。
3.により長期間の共同生活を行う事で軍団内の結束が強まった。戦術面でも長期間の戦線で敵との対峙も可能、長期的な展望をもっての作戦の展開が可能となった。これにより再びローマ外部から侵略してくる蛮族を食い止める事ができた。
4.で支給された土地は主にローマ軍が戦争を行い、占領した土地である事が多かったので、ローマの属州における影響力が徐々に強化されていった。
5.により司令官の軍事力の制限がなくなり、しばしば元老院の権威を圧迫するようになる。また、これらによって、軍団の私兵化が急速に進行していった。

社会面での影響

マリウスの軍制改革は後のローマ社会に多大な影響を与えた。単なる場当たり的な改革に留まらず、困窮した中小農民を兵役から解放すると同時に、無産者を兵士として雇う事により救済する、一石二鳥の効果をもたらした。そして生活面の不安が解消されたことに加えて、兵役に志願することでローマ市民としての誇りも取り戻すことが出来た。先にグラックス兄弟の改革の頓挫によって果たせなかった事が、マリウスの軍制改革によって見事に果たせた事になる。

しかし、共同生活、訓練、戦闘を通じて築き上げられた軍団の結束力はローマ軍を世俗社会から隔離した存在とさせてゆく。兵士にとって生まれ故郷の選挙区よりも軍団との結びつきの方が強固となり、民会よりも軍団の司令官(元老院から、あるいは自前で兵站、給料を取り付け、退役後に占領した土地を分配してくれる人物)との結びつきが強くなっていった。また司令官もそのような兵士たちの要望に応えるように戦地では大胆な侵略を試みるようになる。

また、これまで一定以上の財産を持っていた中小自作農から徴兵された兵士達は、自らの財産を守るためにも戦ってきたが、それらを兵役から解放した結果、そのような「祖国防衛」的なローマ軍の性格が薄らぐ事になった。

同盟市との関係

ローマ市民権を持つものが中心となる改革前のローマ軍では、戦争ではローマ市民の貢献が大きいことが前提であった。
同盟諸都市も軍の供出などの義務を負っていたが、最も犠牲の出る中核部隊をローマ市民の軍団が受け持っていたため、完全なローマ市民権を持たない同盟諸都市にとって応分の負担と考えられ、バランスを保っていた。

マリウスの改革の結果、軍団のなかで市民権を持つものと持たないものが同等の犠牲を払う仕組みとり、ローマ市民は志願兵制に変更されていたのに対し、内政不干渉、自治の名の下にローマのこの制度改革が適用されなかった同盟諸都市は、兵力の供出が義務づけられていたままであったため、ローマ市民権が一種の特権だと感じる同盟諸都市民が多くなっていった。

ローマでは、イタリア半島内の古くからの同盟諸都市に完全なローマ市民権を与えるかどうかは農地改革同様長年の政治課題となっており、マリウスの改革はその問題のバランスを崩すこととなり、後に同盟市戦争を引き起こす1つの要因となった。

政治的影響

実際はマリウスの私兵と化していたものの、名目上はローマ出身者の多くが選挙権のある「ローマ市民兵」であった軍団の兵士達は、やがて軍団司令官の政治的な台頭も促してゆく。
マリウスは、ユグルタ戦争での勝利やキンブリ・テウトニ戦争での戦果によって市民の支持を集め、紀元前101年まで毎年執政官に選ばれた。
紀元前102年、101年にゲルマン人がローマへの侵入を企てた時、マリウスは自らが育て上げた軍勢によってこれを打ち破った。かつてローマ軍に多大な損害を与えた2つの部族を、マリウスはごく僅かな損害によって根絶した。

こうして、この改革は軍団の圧倒的支持を背景に、本来政治的な技能には長けていないマリウスを政治的に台頭させる結果となった。
この傾向はマリウスよりも政治能力の高い人物に受け継がれ、マリウスの副官であったスッラ、スッラの死後には副官であったグナエウス・ポンペイウス及びマルクス・リキニウス・クラッスス、マリウスの義理の甥でスッラの政敵であったガイウス・ユリウス・カエサルがそれぞれ元老院の名のもとにイタリア半島外地での覇権を伸ばしてゆく。そして軍事権力を持つ者同士が相食む内乱の一世紀へと続くことになる。

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