中央集権体制の強化 廃藩置県 廃藩置県地図 廃藩置県の地図
廃藩置県地図 ©世界の歴史まっぷ

中央集権体制の強化

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中央集権体制の強化

欧米列強の圧力に対抗し、近代国家を形成するには天皇を中心とする中央集権体制を樹立することが必要であった。まず版籍奉還で諸藩主の領地(版)領民(籍)の天皇への返上、廃藩置県で幕藩体制を解体、全国は政府の直接統治とした。

中央集権体制の強化

新政府は戊辰戦争に勝利を収め、旧幕府領や幕府側に味方した諸藩の領地を没収·削減して直轄地とし、をおいたが、それ以外は依然として藩の割拠的な支配が続いていた。
しかも、
戊辰戦争の勝利
王政復古に貢献した諸藩のなかには、多くの兵力を保持し、藩を富強化し、その支配体制を強めているものもあった。しかし、新政府にとって欧米列強の圧力に対抗し、いわゆる「万国対峙」をめざして近代国家を形成するには、こうした藩による封建的な割拠体制を打破し、天皇を中心とする中央集権体制を樹立することが是非とも必要であった。この目的のために、政府は相つぐ改革を断行したのである。

版籍奉還

その手始めとなったのは版籍奉還はんせきほうかん、すなわち諸藩主の領地(版)、領民(籍)の天皇への返上であった。この計画・実行にあたった中心人物は大久保利通木戸孝允で、彼らの強い勧めによって1869(明治2)年1月、薩摩・長州・土佐·肥前の藩主はそろって版籍奉還を申し出て、ついで諸藩主もこれにならうということになった。そして同年6月には新政府はこれを認めるとともに、奉還を申し出ていない藩主にも奉還を命じ、旧来の藩主を改めて知藩事ちはんじに任じて、石高にかわりその10分の1を家禄かろくとして支給し、これまで通り藩政にあたらせた。これによって形式的には従来の藩主は新政府の行政官吏となったのである。

廃藩置県

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版籍奉還によって形式的には中央集権体制は強化されたが、実質的な効果はさほどあがらなかった。そのうえ、藩相互の対立や新政府への反抗的風潮もしだいに現れてきた。また、庶民の間にも明治政府への不満の気運がおこり、各地で世直しの農民一揆がおこったりした。そこで明治政府は国内の安定化をはかって中央集権の実をあげようと計画し、まず、薩・長・土の3藩から1万の兵力を東京に集め、政府直属の御親兵ごしんぺいとして中央の軍事力を固めた。ついで、長州の木戸孝允・薩摩の西郷隆盛·土佐の板垣退助(1837〜1919)・肥前の大隈重信(1838〜1922)ら各藩の実力者を参議に据えて、政府の強化をはかった。そして、大久保・西郷・木戸らがひそかに計画を進め、1871(明治4)年7月14日、政府は廃藩置県はいはんちけんの詔を発して、いっきょに藩を廃止しを設置した。同時に、これまでの知藩事を罷免して東京に住まわせることにし、新しく政府の官吏を派遣して県知事(のち、いったん県令と改称)に任命した。初め300以上あった府県は、同1871(明治4)年11月、その区域が大幅に整理·統合され、3府72県となった。ここに幕藩体制はまったく解体され、全国は政府の直接統治のもとにおかれることになったのである。

廃藩置県の断行とその目的

廃藩置県は、少数の薩長出身の政府実力者たちを中心にひそかに計画され、政府から諸藩ヘー方的に通告するかたちで断行された。木戸孝允は廃藩置県の詔が出された日記に、「始てやや世界万国と対峙のもとい定まるといふべし」と書いているが、このことは、廃藩置県が、世界の列強に対抗できる強国をつくるという目的で断行されたことを示している。

このような大変革が諸藩からさしたる抵抗も受けずに実現したことは、ほとんど奇跡的ともいえる。その主な理由は、第1に多くの藩が戊辰戦争で財政的に窮乏化し、政府と対抗する経済的な実力がもはやなかったためと思われる。当時、仙台など13の藩が100万円(現在の200億〜300億円くらい)以上の負債(藩債)をかかえていた。全国諸藩の藩債の総額は7813万円余りで、当時の国家の年間予算(一般会計歳出)の2倍近くに達していた。政府はこれらの藩債のうち、1843(天保14)年以前の分を棄捐きえんし(棒引きにすること)、1844(弘化元)年以降の分3486万円余りを国債を発行して引き継いだ。

廃藩置県が比較的平穏に実行された第2の理由は、藩の側にも欧米先進列強と対抗する国づくりを進めるには中央集権体制の強化が必要だという理解が、かなり深まっていたことである。当時、福井藩の藩校で物理、化学を教えていたアメリカ人教師グリフィス(Griffis, 1843〜1928)は、廃藩置県を通告する使者が福井に到着したとき、藩内に大きな興奮と動揺がおこったが、知識ある藩士たちは異口同音に、これは日本のために必要なことだと語り、「これからの日本は、あなた方の国(アメリカ)やイギリスの仲間入りができる」と、意気揚々と話す藩士もあった、と記している(グリフィス『明治日本体験記』)。

もっとも廃藩置県がまったく平穏に受け入れられたわけではない。岡山・島根などの諸県では、旧領民の間に強制的な旧藩主の束京移住に反対する一揆がおきている。

官制改革

藩閥政府の形成

正院太政大臣三条実美(公家)参議木戸孝允(長州)
西郷隆盛(薩摩)
板垣退助(土佐)
大隈重信(備前)
左院議長副議長江藤新平(肥前)
右院神祇卿大輔福羽美静(津和野)
外務卿岩倉具視(公家)寺島宗則(薩摩)
大蔵卿大久保利通(薩摩)井上馨 (長州)
兵部卿山県有朋(長州)
文部卿大木喬任(肥前)
工部卿後藤象二郎(土佐)
司法卿佐佐木高行(土佐)
宮内卿万里小路博房(公家)
開拓長官東久世通禧(公家)次官黒田清隆(薩摩)
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

版籍奉還の直後、中央官制に大きな改革が行われ、神祇じんぎ太政だじょうの2官をおいて祭政一致の形式をとるように改められたが、廃藩置県を迎えて再び大改革が行われた。そのねらいは、中央集権体制を強めることにあり、太政官は正院・左院・右院三院制となり神祇官は廃止された。正院には政治の最高機関として太政大臣・左右大臣・参議をおき、左院は立法諮問機関とし、右院は各省の長官(きょう)、次官(大輔たいふ)で構成する連絡機関とされた。このような官制改革の結果、薩長土肥、とくに薩長の下級武士出身の官僚たちが、政府部内で実権を握るようになり、公家出身者は三条実美·岩倉具視を除くとほとんどが勢力を失ってしまった。こうして、しだいに、いわゆる「有司ゆうし専制」の藩閥政府が形成されていったのである。

徴兵制度

国家を強化するため、これまでの諸藩士を中心とした軍隊にかわって、徴兵制による国民を基礎とした近代的軍隊をつくりあげることが必要とされた。この方針は版籍奉還直後から大村益次郎によって立案され、彼が暗殺されたのちは、山県有朋やまがたありとも(1838〜1922)を中心に具体化された。廃藩置県によって藩兵は解散され、ついで政府は全国の兵権を兵部省しょうぶしょうに集め、4鎮台をおき、1872(明治5)年3月には御親兵を近衛兵と改めた。そして同年11月、徴兵の詔を出し、1873(明治6)年1月には徴兵令を公布して、士族・平民の身分にかかわりなく満20歳に達した男性を兵役に服させるという新しい軍制を打ち立てた。また、鎮台も6鎮台(のちの師団)になった。こうして組織され、洋式の装備で訓練を受けた新しい軍隊は、のちに西南戦争で大きな威力を発揮したのである。

国民皆兵

徴兵令には家の制度を崩さないように、戸主とこれにかわる者、嗣子しし・養子・官吏·学生など、かなり大幅な免役の規定があり、とくに代人料270円を払えば免役になったりして、「国民皆兵こくみんかいへい」の実はあがらなかった。そこで、1879(明治12)年·83(明治16)年·89(明治22)年の3回にわたって改正を加え、免役規定を縮小して国民皆兵の義務を強化した。

しかし、徴兵令の公布は士族からは武士の特権を奪うものとして非難を受け、平民からは新しく負担を増すものとして反対され、地方によっては暴動を招いた 。そこで、政府は1873(明治6)年国内の治安維持をつかさどる内務省を設置し、翌年その管轄のもとに東京に警視庁を設けるなど、警察制度の整備にも力を注いだ。

1872(明治5)年の徴兵告諭に「血税」という文字があったことから、生き血を絞られるものと誤解して、いわゆる血税一揆と呼ばれる徴兵反対の暴動がおこったところも多かった。

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