十字軍
第1回十字軍のシーン
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十字軍 (11世紀〜13世紀)
西ヨーロッパのキリスト教勢力が十字を掲げて、地中海を中心にイスラームの領域に侵攻した遠征軍のこと。
11世紀後半、イスラームのセルジューク朝が発展し、キリスト教の聖地のひとつ「イェルサレム」を占領し、東ローマ帝国の領土に進出したため、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスがウルバヌス2世(ローマ教皇)に救援を求め、1095年にクレルモン教会会議で、教皇は聖地イェルサレム奪還を呼びかけたことが発端となった。

十字軍

ヨーロッパ世界の形成と発展

十字軍
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

十字軍の背景

古代末期以来のキリスト教の普及とともに、ヨーロッパの人々の間に聖地巡礼熱が高まった。なかでも11〜12世紀ころには、ローマ、イェルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラが三大巡礼地として人気を集めた。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ:キリストの十二使徒のひとり聖ヤコブの墓があると信じられたイベリア半島世北端の都市。サンティアゴは聖ヤコブのスペイン語名。

だが、それらの地域への巡礼はいずれもイスラーム勢力との緊張関係をはらむものであった。すでに、東方における東ローマ帝国やイスラームとの戦いは長期化していたが、西方のイベリア半島でも、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼熱と相まって10世紀頃からキリスト教徒の国土回復運動レコンキスタ)が盛んとなり、イスラームとの戦闘により北部の各地にキリスト教の小王国、公国が自立していた。当時のヨーロッパで、この聖地巡礼とレコンキスタを積極的に奨励したのが、教会(修道院)改革運動の中心をなすクリュニー修道院であった。またイタリア半島南部でも、定着したフランス系ノルマン人がイスラーム統治下のシチリア島を征服(1061〜1091)、さらに東地中海に進出してイスラームや東ローマ帝国との間に戦いを引き起こしていた。

十字軍の背景 東スラヴ人の動向 キエフ大公国 11世紀末のヨーロッパ地図
11世紀末のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

こうした西ヨーロッパの勢力拡大の背景には、封建社会の安定と農業技術の革新に基づく生産力の向上、および人口の増加があった。ドイツでは11〜12世紀になると、貴族や教会、市民や農民が主体となったエルベ川以東への植民運動が活発化し、スラヴ系を中心とする現地人を同化、吸収して、ドイツ語圏を広げていった。またドイツ領のネーデルラント(オランダ)でも、ハーフェル川一帯の沼沢地の干拓が行われるなど、各地で開墾が進展した。いわゆる大開墾時代の到来である。他方、農業生産の増大は商業や手工業を発展させることになり、中世都市が成立し始めた。このように、12世紀の西ヨーロッパは、激しい動きに満ちた「革新の時代」であったといってよい。そして、その激しさを象徴する事件のひとつが十字軍であった。

東ローマ帝国では、11世紀半ばにマケドニア朝にかわったコムネノス朝のもとで、従来の屯田兵制とテマ制が廃止 東ローマ帝国 初期ビザンツ帝国 – 世界の歴史まっぷ)され、ノルマン人などの外国人傭兵に国土防衛を依頼するようになった。
折しも、セルジューク朝が小アジアに進出し、ルーム・セルジューク朝(1077〜1307)を樹立すると、東ローマ帝国は危機に瀕することになった。
そこで、東ローマ帝国コムネノス朝初代皇帝アレクシオス1世コムネノスは、1095年、ローマ教皇をとおして西ヨーロッパの君主や諸侯に救援を要請した( 東ローマ帝国 後期ビザンツ帝国 – 世界の歴史まっぷ)。それは、叙任権闘争の渦中にある教皇にとって、皇帝権に対する教皇権の優位を確立し、さらに1054年以降分離した東方正教会を教皇の手で再び吸収・統合するための絶好の機会であった。ここにウルバヌス2世(ローマ教皇)(1088〜1099)は、中部フランスのクレルモンに宗教会議を招集、聖地回復の十字軍を宣言したのである(1095 クレルモン教会会議)。

クレルモン教会会議とウルバヌス2世の演説

クレルモン教会会議(1095年11月17日〜27日)には聖職者、諸侯、騎士などが参加した他、多くの民衆が傍聴に詰めかけた。
教皇は教会改革の初決議を経て、会議終了直前の11月27日、次のように聖地回復を呼びかけた。
「東方で、わたしたちと同じようにキリストを信ずる人々が苦しんでいる。かれらはわたしたちに救いを求めている。なぜであるか。それは異教徒が聖地を占領し、キリスト教徒を迫害しているからである。……神はその解放をみずからの業として遂行なさる。この神のみ業に加わる者は神に嘉せられ、罪を赦され、つぐないを免ぜられる。キリスト教徒同士の不正な戦いをやめて、神のための正義の戦いにつけ。この呼びかけに応じた者には、現世と来世を問わず、すばらしい報酬が約束されている。ためらうことはない。現世のどんな絆も、あなた方をつなぎとめることはできない。なんとなれば、この企ては神自身が指導者であるから。」と。感動した聴衆は立ち上がり、口々に「神はそれを欲したまう」と叫んだと言われる。

参考 十字軍 (教育社歴史新書―西洋史)

初期の十字軍
第1回十字軍(1096〜1099)
ウルバヌス2世(ローマ教皇)は各地に勧説使かんぜいしを送り、遠征に加わるものには「贖宥しょくゆう」(罪の赦しにともなうつぐないの免除)の特権を与えることを口説いて、十字軍をつのった。
当時、ドイツ、フランス、イギリス3国の国王はいずれも破門中の身であったため( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)、フランス、イタリアなどの諸侯、騎士を中心に4軍団が編成され、1096年8月第1回十字軍が出発した。兵士たちに守られた巡礼者も含めると、その数は10万に達したという。いったんコンスタンティノープルに集結したのち、小アジアを横断してセルジューク朝軍と戦い、アンティオキア公国エデッサ伯国を建国した。そしてシリア沿岸を南下、1099年7月、ファーティマ朝総督治下の聖地イェルサレムを占領、ユダヤ教徒やイスラーム教徒の大量虐殺を行いイェルサレム王国(1099〜1291)を建国した。また1102年にはトリポリ伯国も成立した。
イェルサレム王国:有力な指導者のひとりゴドフロワ・ド・ブイヨン(1060〜1100)が初代の王(正式には「聖墳墓守護者」の称号)になった。

だが、シリア、パレスチナ一帯に領土を獲得した一部の諸侯、騎士や、そこでの土地配分にあずかった少数の市民、農民を除き、遠征に加わった大多数のものは帰途につき、十字軍国家は生産者人口と軍事力の不足に悩まされる事になった。また、聖地に常駐し、巡礼の保護と貧者、病人、死者の世話をする騎士修道会(宗教騎士団)として、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団が設立された。

騎士の城(クラック・デ・シュヴァリエ
クラック・デ・シュヴァリエ
クラック・デ・シュヴァリエ [世界遺産] Wikipedia

ヨハネ騎士団が1142年シリアに建設した城で、1271年マルムーク朝のスルタン・バイバルスによって占領された。塔をともなう二重の城壁によって強化され、広い堀で区切られている。

初期の十字軍 第1回〜第3回十字軍地図 ©世界の歴史まっぷ
第1回〜第3回十字軍地図 11〜12世紀
12世紀十字軍国家地図
12世紀十字軍国家地図 ©世界の歴史まっぷ
第2回十字軍(1147〜1148)

日ならずして、イスラーム側の反撃が開始された。まず、1146年エデッサ伯領が、つづいてアンティオキア候領の東半分が奪還された。ルイ7世(フランス王)ホーエンシュタウフェン朝初代コンラート3世(神聖ローマ皇帝)は、第2回十字軍(1147〜1149)を組織して内陸シリアの拠点ダマスクスを攻撃したが、あえなく失敗した。

初期の十字軍の成功は、イスラーム側の内紛に助けられたものであったが、このころイスラーム世界にサラディン(サラーフッディーン 1138〜1193)が登場すると、形勢は大きく逆転することになった。サラディンはアイユーブ朝(1169〜1250)を立てると、ファーティマ朝を滅ぼしてエジプトにスンナ派信仰を回復し、シリアをもあわせて反十字軍の統一勢力を結集した。その結果、エルサルム王国はサラディンにより1世紀たらずで奪回された。(1187)

第3回十字軍(1189〜1192)

これに対し、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)フィリップ2世(フランス王)リチャード1世(イングランド王)の三大国の君主からなる第3回十字軍(1189〜1192)が結成された。
だが、大軍を率いたフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は途中小アジアで不慮の事故死を遂げ、フィリップ2世(フランス王)はリチャード1世(イングランド王)と対立し、アッコンを奪還後帰国した。
リチャード1世(イングランド王)だけがその後もサラディンとわたりあったが、結局イェルサレムを奪回することはできなかった。なお、この第3回十字軍に際して、ドイツ騎士団が成立している。

宗教騎士団(騎士修道会)
十字軍に際し、騎士以上の階層から募集され、教皇の許可を得て設立された修道会。
騎士と修道士の双方の性格を兼ねそなえ、主としてキリスト教徒巡礼者の保護、傷病者の看護、聖地の警備などにあたった。教皇に直属したが、国王や諸侯からも保護され、各種の特権や領地の寄進を得て大きな勢力となった。最盛期にはその数は100を越し、数万人の会員を数えたといわれる。なかでもパレスチナに建設された聖ヨハネ騎士団(1113)、テンプル騎士団(1119)、ドイツ騎士団(1198)は三大宗教騎士団として有名である。聖地陥落後、聖ヨハネ騎士団はキプロス島からロードス島に、テンプル騎士団はキプロス島からフランスにそれぞれ本拠を移し、商業・金融活動などで活躍したがしだいに本来の目的を失った。またドイツ騎士団は聖地ではあまり活動せず、むしろキリスト教の伝道と農業開発を目的にプロイセンに入植(1230〜1283)、ドイツ本土からの多数の農民や市民の移住を受け入れて発展した。しかし、15世紀初頭ポーランド・リトアニア連合軍に敗れ衰退した。
後期の十字軍
第4回十字軍(1202〜1204)
13世紀初頭の第4回十字軍(1202〜1204)は、教皇権の絶頂期にあったインノケンティウス3世(ローマ教皇)により提唱された。だがヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロの進言により、十字軍は聖地に向かわず、コンスタンティノープルを占領、略奪し、ラテン帝国(1204〜1261)を樹立するという結果を招いた( 後期ビザンツ帝国 – 世界の歴史まっぷ)。フランドル伯がボードゥアン1世(ラテン皇帝)となり、帝国領は封土として諸侯や騎士に授与された。ヴェネツィアもコンスタンティノープルの一部の他、多数の島々や沿岸地方を手に入れた。この十字軍の脱線の背景には、諸侯や騎士の領土欲のほかに、地中海商業をめぐる東ローマ帝国とヴェネツィアの対立があった。
ラテン帝国 十字軍の影響 十字軍の遠征路とラテン帝国地図
十字軍の遠征路とラテン帝国地図 ©世界の歴史まっぷ
少年十字軍

その後、1212年にはフランスとドイツで、神の啓示を受けたとする少年エティエンヌとニコラスの呼びかけに応じ、数千から数万の庶民の子供が熱狂的に聖地を目指した。いわゆる少年十字軍である。準備や資金を欠き、途中で倒れたり、非道な商人により奴隷に売られるなど悲惨な結果となった。

第5回十字軍(1228〜1229)

つづく第5回十字軍(1219〜1221/1228〜1229)は、アッコンからイスラーム側の軍事的、経済的拠点のエジプトに向かったが、カイロに達する前に敗北した。
その後、親イスラーム的なフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)とアイユーブ朝との外交折衝(1228〜1229)により、一時イェルサレムは返還されたものの、1244年フワーリズム(ホラズム)系トルコ人により再び奪われた。

第4回〜第7回十字軍地図 後期の十字軍
第4回〜第7回十字軍地図 ©世界の歴史まっぷ

第6回十字軍(1248〜1254)

これに大きな衝撃を受けたのが、ルイ9世(フランス王)である。信仰に厚く、死後聖者に列せられたルイ9世は、単独で第6回十字軍を組織すると、エジプトを攻めた。
また、このころ急速に台頭したモンゴル人との提携を企て、フランチェスコ派の修道士ルブルックをカラコルムに派遣した。しかし、アイユーブ朝にかわったマムルーク朝(1250〜1517)により撃退された。

第7回十字軍(1270)

その後ルイ9世(フランス王)は第7回十字軍を組織し、北アフリカのチュニスを攻撃したが、その地で病没し失敗に終わった。
一方、パレスチナの十字軍国家では、モンゴル人を恐れてマムルーク朝との提携を望んでいたが、モンゴル軍を撃退したマムルーク朝により、アンティオキア候領(1268)、トリポリ伯国(1289)、アッコン(1291)と相次いで滅ぼされ、聖地回復の夢は完全についえさった。

十字軍の影響

200年にもおよぶ十字軍をつうじて、ビザンツ帝国の衰退が加速された。ローマ教皇も、十字軍を唱導することで当初威信を高めたが、後期十字軍以降しだいに指導力の限界を感じさせ、威信は揺らいだ。
また、東方の領土や富の獲得をめざした諸侯、騎士は全般的に勢力を失い、その遺領を没収した国王が相対的に力を強めていった。
そうした中にあって、十字軍から最大の利益を引き出したのは、北イタリア諸都市であった。兵士と物資の輸送にあたるだけでなく、ライバルのビザンツ商人にかわって東地中海に商圏を拡大し、東方貿易から莫大な富を得ることになった。

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