均田制
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均田制

均田制きんでんせいは、南北朝時代の北魏からはじまり、隋代、唐代まで行われた土地制度。租庸調制・府兵制とともに、律令体制における民衆支配の根幹として運営した。すべての土地を固有とみなし、土地給付の代償として丁男ていだん(21〜59歳)に一律に租庸調や府兵の義務を課す、唐朝の民衆支配の基本理念を示す(個別人身的支配)。

均田制

東アジア世界の形成と発展

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東アジア文化圏の形成

律令体制

律令体制における民衆支配は、均田制・租庸調制・府兵制を不可分のものとして運営するものであった。

均田制は、北魏に始まる土地制度で、一定の基準で土地を農民に給付して、自作農を育成することをめざした。唐では、丁男ていだん(21〜59歳)に対し、口分田(死亡もしくは60歳になると国に返還する)を80畝、永業田えいぎょうでん(おもに桑などの樹木を植え、代々世襲を許される)を20畝、計100畝(約5.5ha)を給付する規定になっていたが、この給田は全国一律におこなわれたものではなく、畑作を中心とする華北一帯で施行されたと考えられ、また人口が多く土地が不足する地方では、規定どおりの給田はおこなわれなかった。むしろ均田制は、すべての土地を固有とみなし、土地給付の代償として丁男に一律に租庸調や府兵の義務を課す(国家が丁男を直接均等に把握・支配する)という、唐朝の民衆支配の基本理念を示すものと考えたほうがようであろう。
隋 文帝(隋) 均田制の比較表
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均田制の比較表 – 世界の歴史まっぷ

このような理念にたつ支配体制を「個別人身的支配」と呼び、秦漢から唐代までの基本的支配理念でもあった。

北方民族の活動と中国の分裂

社会経済の変化

後漢末以来の戦乱や豪族・貴族による大土地所有の発展によって、土地を失った農民は郷里を離れて流民となり、あるいは豪族・貴族の奴隷や隷属民になるものも現れた。これは、国家が直接支配する土地と人民とを減少させることを意味し、必然的に国家の財政、さらには軍事力の基盤を危うくするものであった。
このような事態への対応策としておこなわれたのが、三国の王朝の屯田制西晋の占田・課田法、北魏の均田制である。

均田制は、北魏の孝文帝によって始められた土地制度である。五胡十六国時代の戦乱のため荒廃した華北の農業生産力を回復し、税収を確保することを目的としたもので、一定の基準で土地を農民に支給し、自作農をつくることを目指したが、その効果は一部にとどまった。
なお、特徴的なことは、奴婢・耕牛をも対象にして土地が支給された点で、これらの土地は、当然、奴婢・耕牛の所有者である豪族に帰属することになったわけであり、北魏の均田制が豪族に有利な側面をもっていたことは確かである。こののち、均田制は北朝を経て隋に受け継がれ、唐で整備された。

このような土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。
とりわけ南朝では華北から流入する人々によって長江中・下流域の人口が急増し、江南の開発が進んだ。こうした状況のもとで、荘園や隷属民を所有する豪族・貴族は穀物、野菜、畜産、水産物、手工業製品などを自給する総合的な経営を推し進めた。そのため、一般民衆との経済力の差はますます開いていった。

隋の統一

6世紀末(南北朝時代)に北周では外戚の楊堅ようけんが実権を握り、581年に北周を倒して帝位(文帝)につき、国号を隋(王朝)とした。文帝(隋)は、西魏〜北周以来の根拠地であり、西周鎬京こうけい)・秦(咸陽かんよう)・前漢(長安)の都が営まれた関中の地に新しい都大興城だいこうじょうを建設した。589年には陳(南朝)を滅ぼし、中国は長い分裂の時代を終えて再び統一された。文帝(隋)は、統一国家の支配をより強固にするため、中央集権体制の確立に尽力した。北朝以来の 均田制府兵制を継承しつつ、税制として 租調庸制そちょうようせいを確立して、民衆の支配の強化に努めたこと、地方行政制度を改革して、郡を州にあらため(州県制)、それまで地方長官が任命していた州県の属官をすべて中央からの派遣に改めたこと、これまで強大な勢力をふるってきた門閥貴族を抑制するため、九品中正を廃止して、あらたに学科試験による官吏登用法(選挙と呼ぶ)を開始したことなどは、そうした中央集権化への努力のあらわれである。

北魏に比べ、隋(王朝)均田制では、奴婢・耕牛への給田が廃止されたことが特筆される。
これは帝権が強化され、大土地所有者(貴族層)に対する抑制が強化されたことを明らかに示している。
隋唐の社会
官人永業田

また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田かんじんえいぎょうでんと呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した 官僚貴族となっていった。
一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。

玄宗の政治と唐の衰退

経済・社会面では、安史の乱後、均田制・租庸調制は完全に崩壊し、780年、徳宗(唐)の宰相楊炎ようえんにより、両税法が施行された。
両税法は、土地私有を公認した画期的な税制であり、戸(家)を単位として土地(資産)の多少に応じて課税し、毎年夏・秋に徴収するもので、以後、宋をへて明の中期にいたるまで基本税制として継承された。

これは個々の丁男を単位に均等に課税する律令的な人民支配の理念が完全に変化したことを意味する。また両税の額は年々の予算に応じて決定され、銭額で表示されたが、これも貨幣経済の発展という社会情勢の変化に対応した新しい税制の原理であった。

また安史の乱のころより、塩の専売が開始され、国家の重要な財源となったが、高価な塩を買わされる民衆の困窮は増した。

詳説世界史研究

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