イタリアの統一
- 1859のサルデーニャ領
- 1860フランスに割譲
- 1859イタリア統一戦争で獲得
- 1860中部イタリア併合
- 1860ガリバルディより献上
- 1866プロイセン=オーストリア戦争で併合
- 1870ローマ教皇領併合
- 「未回収のイタリア」(1919併合)
イタリアの統一
19世紀前半の統一運動の挫折を冷静に分析し、その後の道を切り開いたのが、サルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 Vittorio Emanuele II (位サルデーニャ王1849〜61, イタリア国王1861〜78)と、その協力者であり自由主義者として知られていたカヴール Cavour (1810〜61)であった。両者は産業の開発、修道院への課税など国内の近代化を進めるだけでなく、マッツィーニのような国際関係を無視した運動では統一は実現できないと考え、フランスのナポレオン3世に接近した。クリミア戦争への参戦はサルデーニャの国際的地位の向上に貢献しただけでなく、ナポレオン3世との関係を親密にすることになった。そしてサヴォイアとニースをフランスに割譲するかわりに、イタリア統一運動に協力する旨を約束したプロンビエールの密約 Plombière を結んだ。
内外の条件を整えたサルデーニャは1859年オーストリアと開戦し(イタリア統一戦争)、マジェンタ=ソルフェリーノの戦いに勝利したので、しだいにナポレオン3世は自国の南に大国が登場する危機を感じ、戦いの途中でオーストリアと単独で講和を結んだ(ヴィラフランカの講和 Villafranca)。このためサルデーニャはロンバルディア Lombardia しか併合できず、ヴェネツィアは依然としてオーストリアに残ることになった。60年カヴールはナポレオン3世と交渉し、サヴォイア・ニースを割譲するかわりにサルデーニャによる中部イタリアの併合を認めさせた。
イタリア南部ではカヴールの支援をうけた青年イタリアに属するガリバルディ Garibaldi (1807〜82)が赤シャツ隊(千人隊)を率いてシチリアに上陸し、さらに進撃してイタリア半島南部を占領し、ローマをうかがう情勢となった。この動きに危機を察し、共和主義の浸透に警戒心を持つカヴールはさまざまな干渉をおこなってその進路を妨害した。急遽南下を急いだヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の軍隊はモンテクローチェでガリバルディと会見して占領地をサルデーニャ王に献上させた。こうしてトリノを首都とし、ヴェネツィア・教皇領をのぞくイタリア王国が1861年3月成立した。その後ヴェネツィアは1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に参戦することで、教皇領は70年のプロイセン=フランス戦争の際に王国に編入された。ローマ教皇はこれに反発して「ヴァチカンの囚人」と称して対立を続けた。その他、トリエステ・南チロル(トレンティーノ)・イストリア・ダルマティアなど「未回収のイタリア」 Italia irredenta と呼ばれるイタリア人居住地域の回復をめざす領土問題が、20世紀に入っても継続した。