ウィーン体制の動揺
ウィーン体制の動揺
ナポレオンによって高揚されたナショナリズム運動や自由主義運動を抑圧するものであったため、各地で抵抗運動がおきた。
独:ブルシェンシャフト運動
伊:カルボナリの反乱
西:スペイン立憲革命
露:デカブリストの反乱
ウィーン体制の動揺
ウィーン体制は、ナポレオンによって高揚されたナショナリズム運動や自由主義運動を抑圧するものであったため、各地で抵抗運動がおきた。
ドイツ連邦では、1815年イエナにおいてブルシェンシャフト Burschenschaft (学生組合)が結成され、ドイツの各大学に普及して、17年の宗教改革300年祭をきっかけとしたヴァルトブルクの森での集会で頂点に達した。この自由主義運動に警戒心をもった国家君主とメッテルニヒは、カールスバートにおいて運動弾圧の決議をおこない、学生組合は解散させられ、思想統制が徹底された(ブルシェンシャフト運動)。
イタリアでは、1820年から21年にかけて秘密結社のカルボナリ Carbonari が、ピエモンテやナポリにおいて革命運動をおこした(カルボナリの反乱)。
スペインでは1820年、立憲革命のためのリェーゴ Riego (1785〜1823)を指導者とする軍隊の反乱がおき、フェルナンド7世(スペイン王) Fernando VII (位1808, 14〜33)に憲法の制定を承認させたが、五国同盟による干渉軍によって抑圧された(スペイン立憲革命)。
さらに、ロシアでは反動的なニコライ1世 Nikolai I (位1825〜55)の即位に反対してデカブリスト Dekabrist による反乱がおきたが、短期間に鎮圧された(デカブリストの反乱)。
1820年までのこうしたヨーロッパの自由主義・国民主義運動は、ことごとくウィーン体制のまえに屈服した。