キリスト教の発展
イエスの第1の弟子ペテロがまず中心となり、パレスチナから小アジア・ギリシアの都市へ伝道が行われ、信者の共同体である教会が生まれた。ネロ帝、デキウス帝、ディオクレティアヌス帝などの迫害を受けるも、コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発してキリスト教を公認し、テオドシウス帝は異教の礼拝を禁じてキリスト教を国教とした(392)。
キリスト教の発展
最初のキリスト教徒たちは神の国と到来が近いと思っていたが、それは実現ぜず、彼らはイエスの教えを他のユダヤ人に伝道し始めた。
イエスの12人の弟子の第1であったペテロがまず中心となった。パレスチナから小アジア・ギリシアの都市へ伝道が行われ、信者の共同体である教会が生まれていった。
始めパリサイ派としてキリスト教徒を迫害したパウロが改宗し、異邦人(ユダヤ人以外の民族)への伝道を積極的におこなった。これらイエスの教え(福音)を伝える(宣教する)指導者を使徒といい、中でもパウロは多くの書簡でイエスの十字架の死は、神のひとり子による全ての人間の罪の贖いであること、旧約の予言とイエスの関係、教徒の信仰生活のあり方を説いて、原始キリスト教の教義の根幹を形づくった。
彼らの伝道で異邦人の信者も増え、1世紀後半には東方のほとんどのギリシア都市、そして首都ローマにまで教会が生まれた。伝道する使徒のために信者が献金し、教会同士の相互援助や貧民への施しが行われた。
キリスト教徒ははじめはユダヤ人が多く、礼拝や生活面ではユダヤ教のしきたりを守っていた。しかしユダヤ教徒は彼らへの敵意を強め、キリスト教の成立直後からしばしば迫害を行なった。ギリシア人の下層民や女性、解放奴隷や奴隷などが異邦人の中から改宗者となったが、一般のギリシア人・ローマ人にとっては初めはユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつけられず、ともに彼らは多神教をこばみ、とくに神々と皇帝の像を礼拝ぜず、都市の政治や社会生活にとけ込まない、いまわしい人々とみなされていた。
ローマ帝国第5代皇帝ネロの時代の64年ローマ大火が起こり、キリスト教徒がその犯人として処刑された。これがローマ帝国による初めての迫害であり、キリスト教徒が帝国によってその存在が認められた最初でもあるが、これは放火犯の処刑であってキリスト教迫害が目的であったわけではない。けれどもこの迫害の背景に、教徒はいまわしいものという人々の考えがあったということは確かである。
66年〜70年のユダヤ教徒の反乱(ユダヤ戦争)によって、これに加わらなかったキリスト教徒がユダヤ教徒からいよいよ明瞭に区別されるようになった。しかもキリスト教徒が偶像を拒むだけでなく、人の肉を食べるなどの悪徳にふけるものたちだという噂が一般に信じられていた。こうして異邦人、ことに都市の民衆たちによる迫害が2世紀ころからしばしば生じるようになっていった。また属州の総督や皇帝は2世紀にはキリスト教徒が告発されたらこれを受け付け、裁判で教徒であることを彼らが認めたら死刑に処するようになった。
ローマや小アジアの都市、ガリアのリヨンなどでは、このようにして多くのキリスト教徒が民衆の告発や暴行の迫害を受け殉教した。教徒の中には信仰をかたくなに守ってみずから殉教を求めるものも現れた。
ローマ総督プリニウスの審問
2世紀初め、小アジアのローマ総督小プリニウスは、キリスト教徒として告発されたものが肯定したら処刑したが、否定したら神々と皇帝の像に祭儀を捧げさせ、キリストを呪わせて、従ったら釈放した。またかつてキリスト教徒であっても、信仰を捨てて同じようにすれば釈放する許可をトラヤヌス帝から得た。以後ローマの当局は最後の迫害まで、徹底的な弾圧でなく祭儀させてキリスト教徒の屈伏を促そうとする手段をとった。
しかしながら3世紀の半ばまで、キリスト教徒への迫害は一時的なもので、おこなわれる地域も限定されていた。皇帝たちも無責任な告発や暴動のような迫害をむしろ禁止することが多かった。したがってキリスト教徒はかなり公然と伝道することができ、密儀宗教が人々を惹きつける風潮が進むなかで、彼らをひきつけていった。
信者の間の密接な関係、女性や貧民、奴隷も平等に礼拝すること、病人や死者に手厚く接することなどが知られるようになったことがその理由であったろう。
都市の富裕な階級もしだいにキリスト教に改宗するようになった。教会の組織も整えられ、司教が教会の頂点にあって強い指導力を持ち、その下に司祭・執事などがおかれ、ローマやアレクサンドリアなどの大教会は他教会を指導するようになった。
礼拝においてははじめからイエスの言葉やその解釈、使徒の証言や書簡が語られたり読まれたりしていたが、しだいに文書にまとめられた。それが『新約聖書』で、キリストの言行と受難をしるした4つの「福音書」、初代の使徒たちの宣教活動を述べた「使徒言行録」、そしてパウロらの使徒が各地の教会などにあてて教えを説いた書簡などからなっており、2世紀初めには成立した、ユダヤ教の聖書の『旧約聖書』とともにキリスト教の経典となった。
また聖書や教義の研究が教会の学者(教父)たちによって行われ、彼らによって教会の正統な信仰が確立し、特にギリシア哲学との融合がはかられた。また教父たちの中には異教徒、とくに皇帝に対してキリスト教を弁明する書を著すものが現れた。彼らを御教家と呼ぶ。
ローマなどではキリスト教徒は地下墓地(カタコンベ)で集会していたが、そこに聖書をテーマとした多数の壁画を残した。
このようにキリスト教徒は時々迫害を受けながらも伝道を続け、教徒は増え、都市の教会が大きくなっていった。教会は迫害の時に屈伏してしまった教徒も迫害ののちにはまた迎え入れ、帝国や皇帝に対して反抗的な姿勢をとることもなかった。
しかし、3世紀の半ばから帝国が危機に陥る中で宗教の統一を必要とするようになり、ローマ帝国軍人皇帝時代のデキウス帝などが厳しい迫害を命じて、帝国による弾圧が始まった。
帝国再建を果たしたテトラルキア時代のディオクレティアヌス帝も、303年に帝国全域で「大迫害」を命じた。しかしキリスト教徒は、とくに東方では帝国社会にかなり浸透しており、殉教者も続出したが迫害の効果はあがらなかった。そのうち皇帝権の争いが生じて、それに勝利したコンスタンティヌス1世はキリスト教に好意をもち、313年に「ミラノ勅令」を発してキリスト教を公認し、このご東方のリキニウス帝が迫害を再開したが、324年にコンスタンティヌス帝が帝国を統一してキリスト教の地位は確かなものになった。
キリスト教のなかでは神とキリストの関係などについて、すでに1世紀から論争があり、異端として退けられる人々も現れていたが、公認されて一層そのような神学上の対立が深まった。
そのためコンスタンティヌス帝は325年、ニケーアでニケーア公会議を主催し、アタナシウスの主張した、神と神の子キリストが同じ本質をもつという説が正当とされ、他方キリストの神性を否定し、キリストは神によって創造された人間であるとするアリウス派は退けられた。その後も両派の抗争は続いたが、アナタシウス説は神・キリスト・聖霊をひとつのものと信じる「三位一体説」として確立し、アリウス派は異端とされて決着がついた。
この間、「背教者」フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝が出て古典文化とギリシア宗教の復興を企ててキリスト教を抑圧しようとしたが成功せず、キリスト教正統派(カトリック)が確立されていき、テオドシウス帝は他の宗教(異教)の礼拝を禁じてキリスト教を国教とした(392)。
教会は皇帝の支援を受け、大都市の教会を中心として組織を大きくし、農村にも信者は増えていった。教会は免税などの特権によって豊かになり、貧民への施しも制度として行われるようになった。司教は教会だけでなく一般社会や政治に対しても指導力をもった。
聖書のラテン語訳がヒエロニムスによって完成し、神学の研究も東西の教会で進められた。コンスタンティヌス帝の側近であったエウセビオスは『教会史』などを著し、その後教父たちは盛んな執筆活動を行なった。とくに古代末期を代表する最大の教父アウブスティヌス(354〜430)は、みずからのキリスト教への改宗の動機をつづった『告白録』を著すとともに、当時強まったキリスト教に対しローマ帝国の衰えの責任を問う異教徒の批判に答え、キリストの神の国が地上のローマ帝国などをはるかにこえる永遠性をもつことを論証する『神の国』を書き残した。彼はギリシア哲学とキリスト教思想を結合させようとした教父たちをうけて、その流れを完成し、のちの中世ヨーロッパの神学の発展に大きな影響を与えた。
キリスト教会の正統と異端との論争はなおも続いた。アリウス派は北方のゲルマン人の間に広まった。アフリカでは大迫害の際に屈伏した司教を批判するドナティズムの運動が農民に支持され、キリスト論をめぐってはその神的性質と人間的性質を完全に分離させるネストリウス派がおこり、この派はエフェソス公会議(431)で異端とされた。
ネストリウス派はササン朝をへて唐代の中国に伝えられ、景教と呼ばれた。また東方ではキリストが神的性質と人間的性質を完全にひとつの本質としてもつと主張する単性説も盛んになり、カルケドン公会議(451)で異端とされたが、それ以後もエジプトのコプト派はエチオピア・シリア・アルメニアの一部で単性説を奉じた。