モンゴル帝国の解体 チャガタイ・ハン国 元(王朝) イルハン国 モンゴル帝国 モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ

モンゴル帝国の解体

モンゴル帝国の解体

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

ハイドゥの乱は元朝と各ハン国の相互の対立を深めることとなった。ただし宗家(ボルジギン氏)であるフビライの元朝と各ハン国とのゆるやかな連帯関係はその後も継続した。

ユーラシアの全域を統治したモンゴルの政権は、各地で独自の発展をとげた。しかし14世紀になると内紛・天災が相つぎ、明朝によりモンゴル高原に追われた元朝のように各ハン国も分裂や崩壊していった。こうしてモンゴル帝国は解体する。

各ハン国の展開

モンゴル帝国の解体 チャガタイ・ハン国 元(王朝) イルハン国 モンゴル帝国 モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図
モンゴル帝国の最大版図と各ハン国地図 ©世界の歴史まっぷ

チャガタイ・ハン国

首都:アルマリク
チャガタイ・ハン国は、チンギス=ハンの次子チャガタイが天山山脈北麓のイリ川流域からサマルカンドを中心に中央アジアに建国。ハイドゥの乱ののちオゴタイの旧領を併合するが、トルコ人の影響からトルコ語を用い、また急速にイスラームした。14世紀半ばには内紛から東西に分裂し、やがてティムール朝に征服された。

キプチャク・ハン国

首都:サライ
キプチャク・ハン国は、バトゥがヨーロッパ遠征(バトゥの西征)の帰途、南ロシアに建国。住民の多くがトルコ系であったことから急速にイスラーム、トルコ化した。また、ロシアの諸侯を朝貢させ、黒海から東方につうじる交通路を支配して、マムルーク朝東ローマ帝国と交渉をもち、ウズベク・ハンの時代には最盛期を迎えた。しかし、15世紀には内政の腐敗から衰退し、イヴァン3世のモスクワ大公国の独立によって崩壊した。

イルハン国

首都:タブリーズ
イルハン国は、フレグの西征でイランを中心に建国。シリアをマムルーク朝と、カフカスをキプチャク・ハン国と争った。また、同じトルイ家のフビライのたてた元朝とは友好関係を保った。第7代ハンのガザン・ハンは、みずからイスラームに改宗して、これを国教とするとともに、歴史家ラシードゥッディーンを宰相に登用して、土地制度や税制の改革に当たらせ、全盛期を迎えた。しかし、14世紀の半ばころからは王権をめぐる抗争が続いて国内は分裂し、のちに中央アジアからおこったティムールに征服された。

モンゴル帝室の家系図

ハイドゥの乱
モンゴル宗室の系図

タタールの軛の虚実

1236年から約6年にわたるバトゥのヨーロッパ遠征の結果、ロシア諸公国は壊滅的な打撃を受け、破壊をまぬがれた国々も、キプチャク・ハン国への臣従を強いられた。
こうしたロシアの諸公国にはバスカクと呼ばれる徴税官が派遣され、過酷な支配がおこなわれたことが伝えられている。これ以外にもモンゴルは、諸公国の皇位継承に干渉し、不和を助長して、ロシアの封建的分裂を促した。モンゴルの圧政は、「タタールのくびき」と呼ばれ、ロシアの発展を約250年にわたって阻害したと旧ソ連では強調されてきた。
しかしこの「タタールのくびき」のもとで、モスクワ公国は、ロシア大公として徴税をまかされ、免税特権によって発展したギリシア正教会と結んで勢力を拡大し、やがてロシアの盟主となった。同時にモンゴルによってロシアには銀経済がもたらされ、東西交通の幹線道路も通るようになったのもこの時期である。さらにモスクワの宮廷の儀式・制度や、民衆の言葉や習慣にもモンゴル的要素を残すなど、モンゴルの支配は近世ロシアの形成に大きな影響を与えたのが事実であった。
ソ連の衛星国の地位にあったモンゴル人民共和国ではチンギス・ハンを賛美することは政治的に禁圧された。1990年代以降、社会主義を放棄したモンゴルではチンギス・ハンが復権され、その生誕や建国の記念は国家行事となっている。

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