ラテンアメリカの独立
1804 ハイチ
1811 ヴェネズエラ・コロンビア
1816 アルゼンチン
1918 チリ
1822 ブラジル
1919 大コロンビア共和国
1821 ペルー・メキシコ
1925 ボリビア
ラテンアメリカの独立
18世紀末のいわゆる大西洋革命によって、ラテンアメリカにも人間の自由と平等の観念が普及し、ナポレオンによるスペイン=ブルボン家の打倒を機会に自律化が促進され、そして本国の圧政に対する不満もあって1810年代から本格的に独立運動が展開された。
最初に独立を達成したのはフランス領のハイチであった。フランス革命の理念に共鳴し、1791年独立運動を開始したハイチ住民は「黒いジャコバン」と呼ばれたトゥサン=ルヴェルチュール Toussaint L’Ouverture (1743〜1803)を指導者としてナポレオンの軍隊に抵抗し、1804年独立を勝ちとった。
南アメリカのスペイン領植民地ではフェルナンド7世(スペイン王)の専制政治に対して、また宗主国スペインが特定の商人や官僚に対して特権を付与したので、地主としての経済力を持っていた現地生まれの白人であるクリオーリョ Criollos は反発を強めた。
ヴェネズエラでは聖職者のミランダ Miranda (1750頃〜1816)が解放運動を開始したがスペイン軍に逮捕され、これをうけシモン=ボリバル Simon Bolivar (1783〜1830)はスペイン軍との戦いに突入した。彼はクリオーリョを支持基盤としながらも、メスティーソ mestizos (先住民と白人との混血)やムラート mulattos (白人と黒人との混血)らの指示も必要と考え、奴隷解放宣言を発表するなど、その支持基盤拡大に努めた。ボリバルの軍隊はスペイン軍に善戦し、1811年ヴェネズエラ・コロンビア、19年大コロンビア共和国、25年ボリビアをつぎつぎと解放・独立させた。一方、南部ではサン=マルティン San-Martin (1778〜1850)が決起し、アルゼンチン・チリ・ペルーを解放し、ボリビアに入ってシモン=ボリバルと会見した。
国際情勢が有利に展開したことも独立運動成功の一因であった。メッテルニヒはラテンアメリカの独立運動がヨーロッパのナショナリズムを刺激することを恐れて干渉したが、ラテンアメリカを産業資本の市場として確保しようとしたイギリスは、外相G.カニング Canning (1770〜1827)が四国同盟(フランス加盟後は五国同盟)とは一線を画し、自国の経済的利益を優先する方針をとり、自由主義外交を展開して干渉を牽制した。さらにヨーロッパ諸国の進出に警戒心をもち、ラテンアメリカに対する影響力を確保しようとするアメリカ合衆国大統領モンロー Monroe (1758〜1831, 任1817〜25)が、1823年ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を提唱するモンロー教書(宣言) Monroe Docttine を発表したことも、メッテルニヒの干渉を失敗に終わらせることになった。
ブラジルでは、ナポレオンの進出のためブラジルに亡命したドン=ペドロ Dom Antonio Pedro (位1822〜31)(ペドロ1世(ブラジル皇帝))を皇帝としてブラジル帝国が1822年成立し、武力によらずに独立を達成することになった。そして1824年立憲君主政の憲法を制定した。メキシコでは1810年、神父イダルゴ Hidalgo (1753〜1811)によるインディオ農民を指導した武力蜂起が開始され、19年帝国として独立し、24年共和国となった。しかし、独立後も教会や伝統的地主の勢力が強く、国内の自由主義化は進まなかった。
こうしてラテンアメリカの諸国は1820年代までに独立を達成したが、独立戦争はクリオーリョ中心で遂行されたため、自作農創設のための土地革命は実施されず、地主による寡頭専制政治が続いた。経済的にはイギリス資本に従属し、資源や農産物に依存するモノカルチャー経済が進行したため、依然として不安定な状態が続いた。文化的にはイベリア文化とインディオ文化の融合が進み、またのちには黒人文化もとりいれられて独自な文化圏が形成された。