27.モンゴルの大帝国 交通・貿易の発達 スコータイ朝 デリー・スルターン朝 元の東アジア支配 元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

交通・貿易の発達

世祖フビライの時代に交鈔が発行され、濫発するも、王朝が専売する塩の支払いを交鈔に限定しすることで紙幣一本建ての通貨政策が元末まで維持された。巧妙な制度をきずいたフビライを、マルコ・ポーロも『世界の記述』で「最高の錬金術師」と賞賛している。

交通・貿易の発達

内陸アジア
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

遊牧民国家であるモンゴル帝国は、早くから東西貿易における商品課税の利益を重視し、隊商の交通路の整備や治安の確保に努めた。オゴタイ=ハンはカラコルムに都を定めると、これを中核として帝国全土に幹線道路をはりめぐらす駅伝制を整備した。
この制度は、モンゴル帝国ではジャムチと呼ばれ、1日行程ごとにたん(駅)が設けられた。牌符はいふをもった公用の使臣や軍官には、宿泊や食料・駅馬が提供された。

牌符はいふ牌子ぱいざとも呼ぶが、金碑、銀碑、銅碑、木碑、海青碑、円碑などの種類があり、金碑、銀碑は使臣や軍官が駅伝を利用する際に、海青碑、円碑は軍事上、急を要する祭に発給された。この牌符をもつものの安全は確実に保証され、ハイドゥの乱のときも無事に中央アジアを横断できたという。
駅伝を維持、管理するため、付近の民戸100戸と站戸に任じて食料や駅馬さらには労役を提供させた。站戸には若干の免税措置がとられたが、その負担は大きなものであった。

その結果、東は渤海地方から西は黒海にいたる広大な領域が緊密に結合され、また帝国内の交通は安全かつ便利になり、おもにムスリム商人による内陸貿易が活発になった。こうして貿易は、東アジアから中央アジア、西アジアを経て遠くヨーロッパにもおよび、東西の文物の交流が盛んになった。

また、元代にはムスリム商人の活躍により、インド洋、南シナ海を中心に、南海との通商が東西貿易の主流となった。
とりわけ元は、中国の卓越した生産力と商業発展を基礎にこの海上貿易に積極的に加わり、江南の杭州明州泉州広州などの港市が繁栄した。

マルコ・ポーロは『世界の記述』の中で、杭州をキンザイ(宋の臨時宮廷=安西に由来)、泉州をザイトン(泉州城の別名刺桐城しとうじょうに由来)の名で紹介し、とくに泉州を世界最大級の貿易港と述べている。南宋末から元にかけて、泉州の市舶司長官として実権を握っていたのは、アラブ系(またはイラン系)の豪商蒲寿庚ほじゅこうという人物であった。

こうした海陸の交通路の発達により、多くのムスリム商人が中国に入り、モンゴル人皇帝や貴族の領地内での徴税請負や高利貸しを行なうようになった。これらのムスリム商人は、斡脱あつだつ(オルトク)と呼ばれ、チンギス=ハンの時代以来、資金源、情報源としてモンゴルの発展と密接な関係にあった。

ムスリム商人と銀の流出

当時イスラーム世界の東部では銀が不足しており、中国から銀をもち出せば交換レートの差により大きな利益がえられた。そこで斡脱あつだつと呼ばれたムスリム商人は、中国の銀を集めるため、科差かさのひとつである包銀ほうぎんの施行を元朝に提案したといわれる。包銀は中国初の銀による納税で、科差のもう片方の糸料しりょう(絹糸で納税する)とともに華北でしか施行されなかったが、納税者である農民に銀の需要を高めた。さらに斡脱は、こうした納税のために銀を必要とする農民相手に高利貸しを営み、複利式年利10割の高利で銀を搾りとってイスラーム世界に流出させた。また、この利率だと、元利ともに年々2倍になり、羊が子羊をどんどん産んでいくようすに似ているとして、羊羔利ようこうり羊羔児息ようこうじそくと呼ばれて中国人に恐れられた。

通恵河開削

13世紀末、世祖フビライは、人口の増加した首都大都に江南から食料を運ぶため、隋代以来の大運河を補修するとともに、新たに大都と通州との間に通恵河つうけいが(全長80km)を開削かいさくした。
これによって華北と江南を結ぶ大運河のほか、渤海湾に面した直沽ちょくこ(現天津)からの開運物資も大都に運ぶことが可能となり、江南から山東半島を回って大都方面にいたる海運も発達した。
新しい運河は大都の中心の積水潭せきすいたんまでつながり、大都は内陸都市でありながら港をもつようになった。こうして元の首都大都は名実ともに海陸の交通の拠点となり、元末には人口は100万に達した。

モンゴル帝国では当初、銅銭や金・銀が貨幣として用いられたが、オゴタイ・ハン、フビライ・ハンの時代には、金朝にならって交鈔こうしょうが発行された。
この紙幣は、従来のような補助通貨ではなく、元朝は、唯一の通貨として紙幣一本建ての政策をとった。しかし、のちに濫発による猛烈なインフレを招き、元の滅亡の原因となった。

元朝の通貨政策

世祖フビライの時代に、中統鈔ちゅうとうしょう至元鈔しげんしょうの2種類の交鈔が発行されたが、これ以来、紙幣一本建ての通貨政策が元末まで維持された。13世紀後半、生糸や金銀との兌換だかんが停止され、交鈔の価値は下落したが、それでも不換紙幣として元末まで発行され続けた。交鈔には、南宋の紙幣のように有効期間が設けられず、毎年、1000万貫から1億貫の巨額が発行されながらも、滅亡の直前までこの通貨制度は存続した。このように紙幣の暴落や通貨制度の崩壊を招いてもおかしくない交鈔であったが、その価値を維持しえたカラクリは塩課えんか(塩税)にあった。塩は歴代の王朝により専売に指定され、その売価は国家に管理された。従来は民衆が塩を買うときは銅銭で代金を支払っていたが、元朝はこれを交鈔に限定した。すなわち、交鈔をもっていなければ塩が買えなかったのである。いわば交鈔は、塩を本位とした通貨制度であった。このような巧妙な制度をきずいた世祖フビライを、マルコ・ポーロも『世界の記述』で「最高の錬金術師」と賞賛している。

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