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唐文化の波及と東アジア諸国

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唐文化の波及と東アジア諸国

  • 新羅:唐と結び高句麗百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
  • 日本:大化改新を契機として律令国家の形成。
  • 渤海:高句麗の遺民大祚栄が靺鞨族を統一。
  • 吐蕃:ソンツェン・ガンポがチベットに建国。
  • 南詔:チベット・ビルマ系が建国。内紛により滅亡すると大理国がおこる。
  • ベトナム(南越):唐は安南都護府をおく。

唐文化の波及と東アジア諸国

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唐代に完成された律令などの制度や仏教に代表される文化は、日本を含む東アジア諸国に大きな影響を与え、これら諸国の国家形成に大きな役割を果たした。この時代を東アジア文化圏形成の時代と呼ぶのは、こうした唐文化の波及による。この時代の諸国は積極的に唐文化の摂取に努め、その影響はきわめて大きい。

新羅

朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が鼎立ていりつし、これに日本が進出を企てるという状況であった。中国に統一国家ができると、隋・唐ともに高句麗に遠征軍を送り、攻撃を加えたが、高句麗はよく持ちこたえた。そこで唐(王朝)は新羅と結ぶこととし、百済(660)・高句麗(668)をつぎつぎと滅ぼした。
なお663年に日本は百済の再建を目指して唐・新羅と白村江に戦ったが(白村江の戦い)、唐軍の大勝に終わり、日本は半島から手を引くこととなった。この後、新羅は唐(王朝)勢力を半島から退けて、統一国家を樹立した(676)。
新羅は都を金城(現慶州)におき、骨品制こっぴんせいという独特の貴族支配により唐朝にならって官僚国家をつくり、仏教を奨励した。

骨品制こっぴんせい:骨品制は新羅独特の身分制であり、王族(真骨しんこつ)から平民の間に六頭品・五頭品・四頭品の中間層がある。

慶州の仏国寺は当時の仏教の繁栄をしのばせる史蹟である。また新羅商人は活発な海上交易活動を展開し、山東半島や華中の港市こうしには新羅人の居留地がつくられた。

日本

日本のヤマト政権では氏姓制による豪族を中心とする支配が続いていた。6世紀になると豪族間の対立抗争が表面化した。6世紀末に推古天皇の摂政となった聖徳太子は、十七条憲法を制定するなど諸制度を整備し、小野妹子らを遣隋使として派遣し、積極的に大陸の新しい知識や仏教を取り入れようとした。
聖徳太子の没後、政権は蘇我氏によって壟断ろうだんされたが、中大兄皇子(天智天皇)・藤原鎌足らによって蘇我氏が打倒され(大化の改新 645)これを契機として、中央集権的な律令国家が形成されることとなった。中国文化を輸入するためさかんに遣唐使が派遣された。なかには阿倍仲麻呂あべのなかまろ(中国名:朝衡ちょうこう)のように唐(王朝)朝廷に仕えて高官(安南都護)になるものもあった。
8世紀、大宝律令(701)や養老律令(718)の制定、唐都長安を模した平城京(710)や平安京(794)の建設は、律令国家の完成を示すものであった。
文化面では、白鳳文化(7世紀前半)・天平文化(8世紀)など、仏教や中国の文化的影響の強い文化が形成されたが、9世紀後半、唐(王朝)混乱により、遣唐使が廃止されると、貴族的要素の強い国風文化が形成されていった。

日本の呼称

中国では、日本のことを古くは「倭」と呼んでいた。このことは『志』倭人伝によって広く知られるところである。中国の正史では『隋書』以前は「倭国伝」、宋代につくられた『新唐書』以後は、「日本伝」としている。五代につくられた「旧唐書くとうじょ」は「倭国伝」「日本伝」の両方を記しており、唐代に日本という呼称が定着したことがわかる。聖徳太子摂政時代の遣隋使が対等の外交を模索し、その国書に「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す」と記したことはよく知られているが、『旧唐書』日本伝では遣唐使の態度を「多くみずから大をほこる」と記している。新羅の台頭に対し、国際的な立場の強化に努めようとする苦心が感じられ、「日本」という呼称もこうした国際的対面を重視した結果、7世紀末に生まれた呼称とみることができよう(701年制定の大宝律令で法的に定まった。)。

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渤海

渤海ぼっかい(698〜926)は、高句麗の遺民大祚榮だいそえいがツングース系靺鞨族まっかつぞくを統一して、現在の中国東北地方に建国した。

698年震国しんこくと称し、713年唐に朝貢して渤海郡王に封ぜられたので、以後渤海と称した。唐の文化を積極的にとりいれ「海東の盛国」と呼ばれ、日本ともひんぱんに交流した。

都を上京竜泉府じょうけいりゅうせんふにおき、中国式の都城を営んだ。のちに契丹によって滅ぼされた。

渤海 遣唐使 7〜9世紀の東アジアと日唐交通の地図
7〜9世紀の東アジアと日唐交通の地図

吐蕃

吐蕃とばん(7〜9世紀)は、チベットにおいてソンツェン・ガンポが建国した。吐蕃は国力が強大となり、しばしば中国に侵入したので、唐は皇女(文成公主ぶんせいこうしゅ)を降嫁し、その慰撫いぶにつとめた。吐蕃はインド系の仏教(密教)を受容し、チベット仏教(ラマ教)の基礎が形成され、また、インド系の文字をもとにして独自のチベット文字がつくられた。安史の乱によって唐が衰え始めると、吐蕃は勢力を拡大し、敦煌を占領し、一時長安にも侵入(763)するなど、唐を苦しめた。823年、ラサにたてられた「唐蕃会盟碑とうばんかいめいひ」は、両国の和約を記したものであるとともに、漢文・チベット文で書かれており、言語学上においても貴重なものとなっている。

南詔

南詔なんしょう(不明〜902)は、雲南地方において、唐と吐蕃の間隙をぬって、7世紀末〜8世紀前半にチベット・ビルマ系の人々が建国した。唐(王朝)文化をとりいれ、漢字を公用し、仏教の奨励に努めたが、唐が衰えると、しばしば四川地方に侵入して、唐を苦しめた。しかし10世紀初め、内紛によって滅亡した。その後、南詔に服属していた段氏が大理国だいりこく(937〜1254)をたて、モンゴルのフビライに滅ぼされるまで存続した。

ベトナム(南越)

この地は、古く秦の始皇帝武帝(漢)の遠征がおこなわれてことによっても知られるように中国と密接な関係にあった。その結果、中国文化とのかかわりも深い。唐は、622年にハノイに大総管府をおき、679年に安南都護符をおいた。こうした唐(王朝)支配は9世紀の後半まで続いたが、南詔などの侵入に苦しんだ。なお、遣唐使として中国に渡った日本人阿倍仲麻呂あべのなかまろは、この地の都護に任命されている。

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