隋の統一 隋(王朝) 隋との交渉 隋の統一地図
隋の統一地図 ©世界の歴史まっぷ

隋の統一

6世紀末(南北朝時代)北周では外戚の楊堅が実権を握り、581年に北周を倒して帝位(文帝)につき、国号を隋とした。589年陳(南朝)を滅ぼし、中国は長い分裂の時代を終えて再び統一し、統一国家の支配をより強固にするため、中央集権体制の確立に尽力した。

隋の統一

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

6世紀末(南北朝時代)に北周では外戚の楊堅ようけんが実権を握り、581年に北周を倒して帝位(文帝)につき、国号を隋(王朝)とした。文帝(隋)は、西〜北周以来の根拠地であり、西周鎬京こうけい)・秦(咸陽かんよう)・前漢(長安)の都が営まれた関中の地に新しい都大興城だいこうじょうを建設した。589年には陳(南朝)を滅ぼし、中国は長い分裂の時代を終えて再び統一された。文帝(隋)は、統一国家の支配をより強固にするため、中央集権体制の確立に尽力した。北朝以来の 均田制府兵制を継承しつつ、税制として 租調庸制そちょうようせいを確立して、民衆の支配の強化に努めたこと、地方行政制度を改革して、郡を州にあらため(州県制)、それまで地方長官が任命していた州県の属官をすべて中央からの派遣に改めたこと、これまで強大な勢力をふるってきた門閥貴族を抑制するため、九品中正を廃止して、あらたに学科試験による官吏登用法(選挙と呼ぶ)を開始したことなどは、そうした中央集権化への努力のあらわれである。
とりわけ、選挙はのちに科挙かきょと称されて、清末まで継承され、皇帝の専制支配を支える重要な役割を果たすこととなった。

北魏に比べ、隋(王朝)均田制では、奴婢・耕牛への給田が廃止されたことが特筆される。
これは帝権が強化され、大土地所有者(貴族層)に対する抑制が強化されたことを明らかに示している。
均田制
均田制の比較表 ©世界の歴史まっぷ
文帝の子の煬帝ようだいは、江南の杭州こうしゅうから華北の涿郡たくぐん(現北京)にいたる大運河を完成させ、万里の長城を修築するなど、大規模な土木工事を次々におこなった。
大運河は、中国の北と南をひとつに結びつける画期的な意義をもつ事業であったが、多くの農民を徴発・酷使しておこなわれたため、農村は疲弊し、民衆の不満は高まった。
また、煬帝は外征にも力を注ぎ、東突厥高句麗、ベトナムの林邑りんゆう(チャンパー)などへの遠征をおこなったが、これらも民衆の困苦を増やすものであった。
こうして、3回にわたる高句麗遠征(610、612、614)が、高句麗の激しい抵抗にあって失敗に終わると、各地で農民反乱がおこり、煬帝は江南に逃亡したあげく、混乱のなかで殺害され、隋はわずか38年で滅んだ(618)。
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隋の統一地図 ©世界の歴史まっぷ

大運河

大運河は、旧中国において北と南を結ぶ主要な交通輸送路であった。隋以前にも地方別に運河の開削が試みられ、文帝(隋)、煬帝が以下のように整備され開通した。
これらの大運河は、次の唐(王朝)時代になってから、江南より洛陽・長安へ穀物などを輸送することにおいて大いに活用された。
宋をへて元代になって大運河は補修され、あらたに済州河さいしゅうが会通河かいつうがが開かれ、江南の杭州より華北の天津に至る輸送路が完成した(京杭大運河)。
清末以降、他の交通機関の発達にともなって大運河の重要性は減じたが、今でも安価な交通輸送の手段として利用されている。
京杭大運河は中国の世界遺産「大運河」に登録されている。

隋が登場する作品

隋唐演義 隋
隋唐演義 ©浙江永楽影視制作有限公司

日本では「三国志演義」や「封神演義」がよく知られているが、「隋唐演義」も中国で人気の高い演義の1つである。
作者は清代の褚人獲ちょじんかく。唐・宋の伝奇小説や筆記、民間の伝承文芸から材料を収集して作られた物語は、隋(王朝)文帝(=楊堅)が陳を滅亡させたところから始まり、安史の乱の後、唐(王朝)第九代皇帝・玄宗げんそうが長安に戻るところで終わる。
ドラマ「隋唐演義」では、中国統一を果たした隋(王朝)興亡を経て、唐が建国されるまでをドラマチックかつ大迫力のスケールで描いている。

隋唐演義 集いし46人の英雄と滅びゆく帝国 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

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