ヴェルサイユ行進
ヴェルサイユ行進(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

革命の進展

1789.8/4 封建的諸特権の廃止
8/26 「人権宣言」の採択
10/4~5 ヴェルサイユ行進
1791.4 穏健派のミラボー病死
6/20 ヴァレンヌ逃亡事件
1791.9 立憲君主制を定めた憲法が制定

革命の進展

立憲君主制の成立
立憲君主制の成立 ©世界の歴史まっぷ

バスティーユ事件そのものは囚人7人を解放した程度で、都市騒乱としてとるにたらない事件ともいえたが、革命に民衆が介入したというその象徴的意味や政治的影響力は大きかった。1789年7月16日ネッケルは呼びもどされ、翌17日国王はパリを訪問し、国民衛兵創設や新市長バイイ就任などパリ市が独自におこなった改革を認めた。事件は地方にも波及し、各都市で新しい自治体と民兵が組織された。農村では「貴族の陰謀」の噂が恐怖を呼び、自衛した農民たちが領主の館を襲撃、古文書や土地台帳を焼きすて、また買い占め商人や高利貸しなどを襲うなどの騒動が頻発した。この「大恐怖」は全国的な広がりをみせ、国民議会もまた事態に衝撃をうけた。収拾をあせった議員たちは8月4日の夜、ノアイユ子爵らによって提案された封建的諸特権の廃止を、集団的熱狂のなかで可決し宣言した。租税上の特権、領主裁判権、教会の十分の一税、官職売買などさまざまな封建的な特権が廃止された。

革命のアマゾンヌ

テロワーニュ・ド・メリクール
テロワーニュ・ド・メリクール(カルナヴァレ博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
ギリシア神話に伝えられる女性戦士、アマゾンを連想させ「革命のアマゾンヌ」「自由のアマゾンヌ」と呼ばれ、革命と自由に情熱を注ぎこんだ男装の麗人が、フランス革命に登場する。テロワーニュ=ド=メリクール。継母のもとでの不幸な牛飼いの少女、資産家の貴族を破産させた高級娼婦、そして革命のバリで白·黒・濃緑色の乗馬服にほっそりした身をつつみ、幅ひろの帽子の大きな羽根飾りを風になびかせ、さっそうと街を闊歩した女性革命家。テロワーニュはさまざまな顔をもつ。演説で民衆をわかせ、ミラボー・シェイエス・ブリンなど革命家を魅惑した革命期でもっとも著名な女性であった。しかし、ジロンド派とジャコバン派の対立が深まるなかで、ジロンド派とされた彼女は、国民公会前で下町の女性たちから屈辱的な暴行をうけ、以後革命の舞台から姿を消した。精神を病んだテロワーニュはいくつかの病院をたらいまわしにされ、1817年、悲惨な姿で55年の生涯を終えた。

8月26日、国民議会は自由主義的貴族のラ=ファイエット La Fayette(1757〜1834)らが起草した17条からなる「人権宣言」を採択した。正式には「人間と市民の権利の宣言」というこの宣言は、人間の自由・平等の権利、自由・財産の安全および圧政に対する抵抗の権利、国民主権、法の支配、言論・出版の自由、私有財産の不可侵など近代市民社会の基本原則を確認している。

フランス人権宣言(抜粋)

  • 第ー条:人間は自由かつ権利において平等なものとして生まれ、また、存在する。社会的な差別は、共同の利益にもとづいてのみ、設けることができる。
  • 第二条:あらゆる政治的結合(国家)の目的は、人間の自然で時効により消滅することのない権利の保全である。それらの権利とは自由・所有権・安全および圧政への抵抗である。
  • 第三条:あらゆる主権の原理(起源・根源)は、本質的の国民のうちに存在する。いかなる団体、いかなる個人も、国民から明白に由来するものでない権威を、行使することはできない。
  • 第十七条:所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も、適法に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また、事前の公正な補償の条件のもとでなければ、それを奪われることはない。

「神聖かつ不可侵」の所有権

人権宣言では、所有権は自由や安全とならぶ「人間の自然で時効により消滅することのない権利」であり、「所有権は神聖かつ不可侵である」とされている。土地所有権についていえば、大革命は個々の土地所有者を擁護するため、重層的で前近代的な所有権を近代的所有権に一元化しようとした。封建諸税の徴収権というかたちで残っていた領主の封建的土地所有権は、1793年の封建的諸特権の無償廃止により一掃された。教会や亡命貴族の不動産は没収されて国有財産となり、アッシニア紙幣と引き換えに売却された。これら不動産の私的所有権を保証することは、紙幣の信用を支えるためにも必要であった。土地所有者は自分の畑を囲い込む権利が与えられた。共有地を分割して、くじ引きで分配することも決められた。しかし、それは、貧しい農民の共同体的諸権利を抑圧することにもなった。老人・寡婦・子ども・病人・障害者たちが、収穫後落ち穂を拾ったり、二番草を刈り取ったり、家畜用の藁を集めたり、積み残したブドウを集めたり、休耕地に家畜を放牧するなど、それまで貧しい人々に認められていた共同的諸慣習が制限されることになったのである。

ヴェルサイユ行進
ヴェルサイユ行進(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

国王が8月の法令の裁可を遅らせ、パリの食糧事情が悪化したことで、10月4日〜5日にまた民衆の行動がおこなわれる。国王にパンを要求するパリの中央市場、場末街の女性たちはこの日パリからヴェルサイユ行進し、宮殿に乱入、国王一家をパリに連れ帰った。国民議会もパリに移り、国王と議会はパリの革命的な民衆の監視下におかれることになった。

国民議会は89年から91年にかけて、教会財産の国有化、これを担保にした公債アッシニア Assignat の発行、聖職者を公務員として政府の監督下におく聖職者民事基本法、ギルドの廃止と営業の自由、度量衡の統一などを可決し改革を進めた。議会では立憲君主派が多数を占めていたが、左翼は民衆の支持を集めていた。

91年宮廷と議会の間の調停にたっていた穏健派のミラボーが病死すると、革命の急進化に不安をもったルイ16世(フランス王)とその一家は、6月20日パリを脱出し、王妃マリ=アントワネット Marie Antoinette (1755〜1793)の母国オーストリアへの亡命をはかった。しかし、国境近くのヴァレンヌ Varennes でこの逃亡は発覚し、国王一家はパリに連れもどされた(ヴァレンヌ逃亡事件)。民衆は国王への不信をつのらせた。

ヴァレンヌ事件
ヴァレンヌ逃亡事件 ブルジョワに扮したルイ16世とその家族が逮捕される場面(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

急進的な共和主義を恐れた議会は、憲法制定による秩序の維持を急いだ。91年9月、立憲君主制を定めた憲法が制定された。王権は縮小されたが、議会が可決した法案の裁可を一定期間拒否することができるという「停止的」拒否権が王に残された。市民は、ただ市民権のみを享受する受動市民と、政治に参加する資格を与えられた能動市民に分けられた。一定の資産を有する市民のみが能動市民として選挙権をもった。

アッシニア:革命中、紙幣として用いられたが、濫発のためインフレをひきおこした。
度量衡の統一:地球子午線長の4000万分の1を基礎にした新単位系のメートル法は、1799年正式に採用された。
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