領土の拡張 52.アメリカ合衆国の発展 アメリカ合衆国の領土拡張地図
アメリカ合衆国の領土拡張地図 ©世界の歴史まっぷ
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領土の拡張

  • 1783 イギリスより割譲
  • 1803 フランスのナポレオンより買収
  • 1818 イギリスと交換
  • 1819 スペインより買収
  • 1836 テキサス独立 → 1845 併合
  • 1846 オレゴン協定 → 併合
  • 1848 メキシコより割譲
  • 1853 メキシコより買収

領土の拡張

領土の拡張 52.アメリカ合衆国の発展 アメリカ合衆国の領土拡張地図
アメリカ合衆国の領土拡張地図 ©世界の歴史まっぷ

19世紀に入ってナポレオン1世がハイチの独立運動の鎮圧に関連して戦費の調達に苦しんだとき、アメリカにルイジアナの売却を打診してきた。当時のジェファソン大統領はこれをうけ、1803年買収した。また18年にはイギリスからレッド川盆地を獲得し、さらに19年スペインからフロリダを買収して、領土を着実に増大させていった。ルイジアナ購入以来アメリカ人はメキシコとの国境を無視してさかんにテキサスに入植した。この入植を排除しようとするメキシコ軍と衝突した有名な事件がアラモ砦の戦いで、メキシコ兵1544名を殺しながら砦にたてこもった187名全員が玉砕した。

マニフェスト=ディスティニー Manifest Destiny (明白な天命、膨張の天命)©世界の歴史まっぷ

「アメリカの運命、明白な天明」と題されたこの絵には、右手に天明の書、左手に電線をもった女神が、西にかけるなかで、文明の利器とさまざまな職業の白人たちが時間差をもって西に向かって文明化していく一方、バッファローや先住民が暗闇に追われているさまが描かれている。「明白な天明」という言葉は、1845年ジョン=L=オサリヴァンが「年々増加する何百万人のもの我が国民の自由な発展のために、神が割りあてたもうたこの大陸をおおって拡大していくという、我々の明白な天明」と述べてテキサス併合の正当化を主張した際に使用された。 参考:山川 詳説世界史図録

マニフェスト=ディスティニー(明白な天命、膨張の天命):この言葉は、編集者サリヴァンの『デモクラティック=レヴュー』7・8月号のなかの「併合」という論文のなかで初めて使用された。低い水準にあるアメリカ大陸の地域に対して、アメリカ人の文化や制度を与え、その土地をアメリカが併合することは神によって示されている明白な天明であるという考え。

これ以後「アラモを忘れるな」はアメリカ人の合言葉となり、併合達成への士気が鼓舞され、1845年テキサスの併合に成功した。このときアメリカのジャーナリズムはアメリカの領土は天から与えられた使命とする「マニフェスト=ディスティニー Manifest Destiny (明白な天命、膨張の天命)をさかんに訴えた。これがオレゴンの併合を必然的なものとし(46年併合)、さらにメキシコと戦って(アメリカ=メキシコ戦争 1846〜48)、48年カリフォルニアなどを獲得した。同年カリフォルニアに金鉱が発見されると翌49年この地域へ多くの移民が殺到し、開発が進んだ(フォーティーナイナーズ 「49年組」)。アメリカ南部に大陸横断鉄道を計画するガズデン Gadsden が当時のピアース大統領 F.Pierce (1804〜69 任1853〜57)の委任をうけて、メキシコと交渉してリオグランデ川の蛇行の関係から国境が不安定であったアリゾナとニューメキシコの南端部を53年購入し、現在の領土の大半が確定した。

ルイジアナは1763年のパリ条約でフランス領からスペイン領に変更されていたが、1800年10月のサン=イルデフォンソの密約でスペインからフランスのナポレオンに割譲されていた。

ペリーの日本来訪

当時、日本近海で捕鯨活動をおこなっていたアメリカは、海難にともなう船員の保護、食料・水・燃料の補給のための寄港、通称のための寄港を目的として開国を要求した。しかし、すでにアメリカは1837年、モリソン号が日本人難破船員を送り届け通商を求めたが、幕府側の砲撃によって退散した事件を経験していたし、46年にも浦賀に2隻のアメリカ船が訪れて通商を求めたが拒否され、さらに同年日本近海で難破した捕鯨船員15名が長崎に拘留されて過酷な待遇をうけたことがあった。このため、ペリーは本国から平和的な方法による開国交渉を指示されていたが、実力の誇示こそが日本開国に効果があると考えていた。1853年の初訪問では8日間いただけで退去し翌年再度訪問して日米和親条約を締結した。53年はちょうどクリミア戦争がおきた年であり、日本近海に触手をのばしていたイギリス・フランス・ロシアはその戦争に忙殺されていた。

インディアン問題

Indian, ネイティヴ=アメリカン Native American
イギリスが大西洋の地域、ジェームズタウン(ヴァージニア)やプリマス(マサチューセッツ)などに入植すると、当初は先住アメリカ人であるインディアンと協調関係にあった。プリマスに入植したピューリタンの一団の越冬に援助の手を差しのべたのはインディアンであり、アメリカ大陸の作物、たとえばトウモロコシ・ジャガイモなどの栽培法を入植者に教えた。しかし、白人のもつ土地所有観念はインディアンのそれとは相容れず、対立が激化して、プリマス植民地ではワンパノアーグ族のメタカム Metacom (英名 フィリップ王)が率いる部族連合が白人植民地と戦った(フィリップ王戦争 1675〜76)。結局インディアンが敗北したが、ヴァージニアでは1622年ポーハタン族の蜂起がおこり、以後20年間戦闘がおこなわれた。

五大湖地方のショーニ族は1812年の戦争の際、テクムシを指導者として抵抗し、南部方面のクリーク族は逃亡奴隷と連合して抵抗し、フロリダ地方のセミノール族はゲリラ戦術をもって白人と長期戦を戦ったがいずれも敗北した。ミシシッピ川領域のプレーリー平原一帯ではスー族やシャイアン族が抵抗し、ロッキー山脈の山岳地帯やその山麓ではアパッチ族やコマンチ族などが武力による抵抗をおこなった。しかし、インディアンの反撃は第7騎兵隊を全滅させたような成功(1865)をエルことはまれで、逆にサンドクリークの虐殺(1865)のように騎兵隊による無抵抗のインディアンの虐殺もおこり、しだいにインディアンは追い詰めれれていった。アパッチのジェロニモ Geronimo (1829〜1909)の抵抗も同様であった。

ジェロニモ(画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

アパッチ族最後の族長として、合衆国陸軍に抵抗し、ニューメキシコなどの一帯でゲリラ戦を展開し、住民を恐怖に陥れた。

インディアンの強制移住政策を進めたのが、アメリカ民主主義を進展させたとされるジャクソン大統領であった。彼は1830年インディアン強制移住法を制定し、在任中に94の移住条約を結び、インディアンを西部に設定した保留地へとおいやっった。チェロキー族はオクラホマまで約1300km、途中で飢え、寒さ、病気などで死亡したもの約4000人に達し、そのルートは「涙の旅路」 Trail of Tears と呼ばれた。そしてその保留地もインディアンの自作農を創設するとの大義名分のもと、部族の共同所有の土地を個人の所有に変更することによって貧困化したインディアンから土地を奪い取り、インディアンの生活基盤を奪っていった。組織的抵抗は1890年のウーンデッドニーの虐殺をもって終了し、フロンティアの消滅が宣言された。

これをドーズ法 Dawes Act, 正式にはインディアン一般土地割当法という。この法は保留地の部族共有地を廃止して個人の所有地にして、部族組織と部族文化を破壊して白人社会にインディアンを同化させようとする意図があった。すなわち、従来の軍事的征服から文化解体政策への転換を示す法である。
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