バラモン教 古代オリエント インド・ヨーロッパ語族 の移動 インド・ヨーロッパ語系民族の進出
古代オリエント インド・ヨーロッパ語族の移動 紀元前2000年紀

インド=ヨーロッパ語系民族の進出

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インド=ヨーロッパ語系民族の進出

インド=ヨーロッパ語系民族の進出

オリエントと地中海世界
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

現住地とされる中央アジアや南ロシアより紀元前2千年紀諸島に移動を開始したインド=ヨーロッパ語系民族は、他の民族(民族系統不明のフルリ人も、この時期に東方より北メソポタミアに進出し、その後各地に広がって、インド=ヨーロッパ語系の民族がたてた諸公国の人口の重要な部分を占めるようになった。)も巻き込んでオリエントに波状的に侵入した。馬(オリエント世界に初めて登場)にひかせた戦車で編成された彼らの軍隊は、そのすぐれた機動力をいかして先住民を次々に撃破し、各地に征服国家をたてた。これによって、エジプトも含めてオリエントの各地方の接触が促され、ひとつの世界としての古代オリエントが形成される道がひらけた。

まず紀元前19世紀ころに小アジアのアナトリア高原に移動した一派は、先住民族を従えてヒッタイト王国をたてた。紀元前1650年ころにはハットゥシャを都とする強力な帝国に成長し、紀元前16世紀のはじめには古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼした。最盛期は紀元前14世紀で、南進してミタンニ・エジプトと抗争した。なかでも紀元前13世紀の初頭、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争ったカデシュの戦いは有名である。彼らが軍事的に強大化したのは、馬と戦車に加えて鉄製武器を使用した事による。紀元前12世紀初めに、当時東地中海全域を巻き込んだ民族大移動の波の中で、バルカン方面から来襲した民族によって滅ぼされたが、これ以降、それまでヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及するようになった。
カデシュの戦い:戦いが引き分けに終わったあと、両国の間で講和条約が結ばれた。対等国家間の国際条約としては、現存する世界最古のものである。
インド=ヨーロッパ語系民族の進出
古代オリエント 紀元前2000年紀
インド=ヨーロッパ語系民族の進出
古代オリエント 紀元前1200年頃
インド=ヨーロッパ語系民族の進出
古代オリエント 紀元前1200年頃 2
民族系統不明のフルリ人も、この時期に東方より北メソポタミアに進出し、その後各地に広がって、インド=ヨーロッパ語系の民族がたてた諸王国の人口の重要な部分を占めるようになった。

古バビロニア王国が滅んだあとには、東方山地よりインド=ヨーロッパ語系の別の派であるカッシート人が侵入し、王国(バビロン第3王朝)をたててメソポタミア南部を約400年間支配した。また他の一派はフルリ人とともにミタンニ王国を形成し、紀元前15世紀から次の世紀の半ばまで、メソポタミア北部から北シリアにかけて強い勢力を張った。こうしてオリエントでは紀元前2千年紀の半ばに、エジプトの新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生まれたが、その後、紀元前1200年前後に上に記した民族大移動の波が東地中海地方を襲うと、混乱はさらに大きなものとなった。しかしやがて、その中から新たな勢力が台頭し、オリエント世界の新しい秩序が形づくらてていくのである。

ボアズキョイの発掘

1905年から翌年にかけて、ドイツのヴィンクラーが当時オスマン帝国領であったアナトリア高原のボアズキョイの遺跡を発掘し、ヒッタイト王国の首都ハットゥシャの存在を明らかにした。遺構より多数出土した粘土板文書の解読と研究をつうじて、やがてヒッタイト学という学問が成立し、現在は日本からも調査隊が派遣されて、小アジア各地でさかんに発掘がおこなわれている。

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