オスマン帝国の拡大
オスマン帝国の領土は、西はハンガリー、アルジェリアから東はイエメン・イラクにおよび、地中海世界の周域を押さえ、かつての古代ローマ帝国の版図の4分の3を占めた。帝国内の各都市ではモスク・マドラサ・市場などの施設が整備され、首都イスタンブルは人口50万をこえる大都市へと発展した。
オスマン帝国の拡大
13世紀のアナトリアでは、君候(ベイ)に率いられたトルコ戦士(ガージー)集団による小国家が林立していた。セルジューク朝と同じオグズ族出身のオスマン1世(位1299〜1326)は、西北アナトリアに残るビザンツ帝国領を攻撃、オルハン(位1326〜1362)の時代にブルサを攻略しここに首都を定めた。ムラト1世(位1362〜1389)は、1362年アドリアノープルを征服しここを拠点としてバルカン征服を進め、1389年にコソボの戦いにおいてセルビア・ボスニア・ワラキアの連合軍を破り( 南スラヴ人の動向 )、これらの地域へのトルコ人の移住を進めた。
左右の尖った塔が「敬礼の門」で、トプカプ宮殿本体の入り口にあたる。この宮殿の台所であった場所にオスマン帝国宮廷が集めた東洋陶磁器のコレクションが展示されている。
スルタン=カリフ制
オスマン帝国のスルタンは、世俗権力者としてのスルタンであるとともに、宗教的権威者としてのカリフでもあり、カリフ位はセリム1世がマムルーク朝を滅ぼした際にエジプトにいたアッバース朝カリフから禅譲されたといわれる。しかし、禅譲の記事は同時代の資料にはなく、スルタン=カリフ制の理念は、18世紀末以降ヨーロッパ列強の進出に対抗し、衰退期に入ったスルタンが内外のムスリムに対する影響力を強めるために主張されたものである。
スレイマン1世はバルカン方面では1526年にドナウ河岸モハーチの戦いに勝利し、ハンガリーに支配領域を広げ、1529年には12万の兵を率いてウィーンを包囲したが(第1次ウィーン包囲)、冬将軍の到来に退却を余儀なくされた。1534年にはイラン・イラクに遠征し、タブリーズ・バグダードを攻略しペルシア湾岸への貿易ルートを押さえた。1533年には、北アフリカ沿岸を荒らしていた海賊バルバロス(?〜1546)が帰順し、彼を海軍総督に任じ、バルバロスは1534年にチュニスを占領した。1538年にはプレヴェザの海戦でローマ教皇と神聖ローマ皇帝の連合したキリスト教徒軍を破り、地中海の制海権を握った。1550年にはアルジェリアを、1570年にはキプロス島を占領、これに脅威を感じたスペイン・ヴェネツィアなどが連合艦隊を組織し、1571年にレパント沖にオスマン海軍を破ったが(レパントの海戦)、オスマン帝国側は、なお東地中海の制海権を維持した。これらの遠征によって、オスマン帝国の領土は、西はハンガリー、アルジェリアから東はイエメン・イラクにおよび、地中海世界の周域を押さえ、かつての古代ローマ帝国の版図の4分の3を占めるほどとなった。帝国内の各都市ではモスク・マドラサ・市場などの施設が整備され、首都イスタンブルは人口50万をこえる大都市へと発展した。
こうしてオスマン帝国は、領内に多様な民族・言語・宗教をもつ住民を抱えることとなった。その統治体制は、イスラームを支配の原理にすえ、一方で多様な民族の共存をはかりながら、これを中央集権的機構によって統治した。中央では、スルタンは政治・外交・軍事の全権を大宰相(サドラザム)にゆだね、大宰相の主宰する御前会議によって国事がはかられ、書記官僚によって全国に法令(カーヌーン)や命令が伝達された。軍の中核は、スルタン直属の奴隷軍団(カプクル)で、なかでもイェニチェリと呼ばれる歩兵軍団は、忠実かつ強力な軍団として知られていた。地方では、ティマールと呼ばれる軍事封土を授与し、戦時には一定数の従士を率いて出征することを義務づけ、最小の封土保有者がシパーヒーと呼ばれる騎士であった。
地方は、30余の州(エヤーレト)に分けて総督(ベイレルベイ)を任命し、ティマール制を施行する直轄領(バルカン・アナトリア・シリア)とそれ以外の納税だけを義務づけられた間接統治領の2種類があった。前者では、綿密な検知にもとづき、軍人に封土を授与し、農民はもとより職人・商人・遊牧民から徴税がおこなわれた。各州は、さらに県・郡に分けられ、末端の郡はカーディー(裁判官)が行政の責任を負った。大宰相を頂点とする高官や軍事の支柱たるイェニチェリを供給するため、デヴシルメ制がとられた。他方、裁判をはじめとする法行政は、ウラマーにゆだね、各郡にはカーディーが任命され、シャリーア(イスラーム法)にもとづいて裁判をおこなった。首都イスタンブルのシャイフ・アルイスラーム(イスラームの長老)は、ウラマーの代表として、スルタンを含め為政者がイスラーム法から逸脱した行為をおこなうとこれを規制する権限をもった。
歴代君主
オスマン帝国君主一覧
代 | 肖像 | 名 | 在位 | 続柄 |
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1 | オスマン1世 1258年 - 1326年 | 1299年 - 1326年 | ||
2 | オルハン 1281年? - 1362年? | 1326年 - 1362年? | 先代の子 | |
3 | ムラト1世 1326年? - 1389年 | 1362年? - 1389年 | 先代の次男 | |
4 | バヤズィト1世 1360年 - 1403年 | 1389年 - 1402年 | 先代の子 | |
5 | メフメト1世 1389年? - 1421年 | 1413年 - 1421年 | 先代の子 | |
6 | ムラト2世 1404年 - 1451年 | 1421年 - 1444年 | 先代の子 | |
7 | メフメト2世 1432年 - 1481年 | 1444年 - 1446年 | 先代の子 | |
- | ムラト2世(復位) | 1446年 - 1451年 | ||
- | メフメト2世(復位) | 1451年 - 1481年 | ||
8 | バヤズィト2世 1447年 - 1512年 | 1481年 - 1512年 | 先代の長男 | |
9 | セリム1世 1465年 - 1520年 | 1512年 - 1520年 | 先代の子 | |
10 | スレイマン1世 1494年 - 1566年 | 1520年 - 1566年 | 先代の長男 | |
11 | セリム2世 1524年 - 1574年 | 1566年 - 1574年 | 先代の子 | |
12 | ムラト3世 1546年 - 1595年 | 1574年 - 1595年 | 先代の子 | |
13 | メフメト3世 1566年 - 1603年 | 1595年 - 1603年 | 先代の子 | |
14 | アフメト1世 1590年 - 1617年 | 1603年 - 1617年 | 先代の子 | |
15 | ムスタファ1世 1592年 - 1639年 | 1617年 - 1618年 | 先代の弟 13代メフメト3世の子 |
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16 | オスマン2世 1604年 - 1622年 | 1618年 - 1622年 | 先代の甥 14代アフメト1世の子 |
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- | ムスタファ1世(復位) | 1622年 - 1623年 | ||
17 | ムラト4世 1612年 - 1640年 | 1623年 - 1640年 | 先代の甥 14代アフメト1世の子 |
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18 | イブラヒム 1615年 - 1648年 | 1640年 - 1648年 | 先代の弟 14代アフメト1世の子 |
|
19 | メフメト4世 1642年 - 1693年 | 1648年 - 1687年 | 先代の子 | |
20 | スレイマン2世 1642年 - 1691年 | 1687年 - 1691年 | 先代の弟 18代イブラヒムの子 |
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21 | アフメト2世 1643年 - 1695年 | 1691年 - 1695年 | 先代の弟 18代イブラヒムの子 |
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22 | ムスタファ2世 1664年 - 1703年 | 1695年 - 1703年 | 先代の甥 19代メフメト4世の子 |
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23 | アフメト3世 1673年 - 1736年 | 1703年 - 1730年 | 先代の弟 19代メフメト4世の子 |
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24 | マフムト1世 1696年 - 1754年 | 1730年 - 1754年 | 先代の甥 22代ムスタファ2世の子 |
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25 | オスマン3世 1699年 - 1757年 | 1754年 - 1757年 | 先代の弟 22代ムスタファ2世の子 |
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26 | ムスタファ3世 1717年 - 1774年 | 1757年 - 1774年 | 先代の従弟 23代アフメト3世の子 |
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27 | アブデュル=ハミト1世 1725年 - 1789年 | 1774年 - 1789年 | 先代の弟 23代アフメト3世の子 |
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28 | セリム3世 1761年 - 1808年 | 1789年 - 1807年 | 先代の甥 26代ムスタファ3世の子 |
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29 | ムスタファ4世 1779年 - 1808年 | 1807年 - 1808年 | 先代の従弟 27代アブデュル=ハミト1世の子 |
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30 | マフムト2世 1785年 - 1839年 | 1808年 - 1839年 | 先代の弟 27代アブデュル=ハミト1世の子 |
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31 | アブデュル=メジト1世 1823年 - 1861年 | 1839年 - 1861年 | 先代の子 | |
32 | アブデュル=アジーズ 1830年 - 1876年 | 1861年 - 1876年 | 先代の弟 30代マフムト2世の子 |
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33 | ムラト5世 1840年 - 1906年 | 1876年 | 先代の甥 31代アブデュル=メジト1世の子 |
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34 | アブデュル=ハミト2世 1842年 - 1918年 | 1876年 - 1909年 | 先代の弟 31代アブデュル=メジト1世の子 |
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35 | メフメト5世 1844年 - 1918年 | 1909年 - 1918年 | 先代の弟 31代アブデュル=メジト1世の子 |
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36 | メフメト6世 1861年 - 1926年 | 1918年 - 1922年 | 先代の弟 31代アブデュル=メジト1世の子 |