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イタリアとドイツの統一地図 ©世界の歴史まっぷ

ドイツの統一

プロイセン王国の国王ヴィルヘルム1世・首相ビスマルクは鉄血政策を推進して武力によるドイツ統一をめざし、軍事産業の育成、軍隊上の組織改革を実現した。1864年デンマーク戦争、66年普墺戦争に勝利してプロイセン盟主の北ドイツ連邦が成立。普仏戦争に勝利すると1871年ドイツ帝国が成立した。

ドイツの統一

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1861年プロイセン王に即位したヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)(位プロイセン王1861〜88 ドイツ皇帝1871〜88)は、翌年ユンカー Junker 出身のビスマルク Bismarck (1815〜98)を首相に任命した。ビスマルクは話し合いや民主主義的方法ではドイツの統一は実現できないとし、「鉄血政策」を推進して武力によるドイツ統一をめざした。プロイセン国内では工業化が推進されるとともに軍需産業が育成され、軍隊上の組織改革を実現し、富国強兵策が推進された。

ドイツの軍需産業を代表するのがクルップ Krupp で、19世紀初めには小さな鋳鋼所であったが第2代のときから鉄鋼独占企業となり、武器や鉄道部品の製造、ベッセマー製法による鉄鋼の大量生産、1870年のプロイセン=フランス戦争でのクルップ砲の活躍など、「死の商人」として世界的に有名になった。
近代ドイツ軍の創始者が大モルトケ Moltke (1800〜91)で、彼は参謀将校を育成して参謀本部を創設した。デンマーク戦(1864)、オーストリア戦(1866)、フランス戦(1870〜71)には参謀総長として参加し、綿密な作戦計画をたててプロイセンの勝利に貢献した。

一定の成果をあげたのち、64年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスヴィヒ Schleswig ・ホルシュタイン Holstein 両州を奪った。66年には両州の管理問題からオーストリアと開戦した。これがプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)であるが、たったの7週間でプロイセンが勝利した。とくに、最大の激戦がケーニヒグレーツの戦い Königgrätz (サドワの戦い)においておこなわれたが、工業化と組織の近代化に成功したプロイセン軍が圧勝した。67年ドイツ連邦が解体され、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦(1867〜71)が成立した。

敗北したオーストリアは領域内のナショナリズム運動対策のためハンガリーに特権を与え、議会と行政府の存在を容認して自治権を与え(アウスグライヒ:妥協 Ausgleich )、体制内に組みこんで、オーストリア=ハンガリー帝国(1867〜1918)を形成して、支配の重点を東欧においた。しかしこのことは、オーストリアの複合民族国家としての性格をいっそう強めることになり、領域内のナショナリズム運動に苦しむことになった。

フランスのナポレオン3世は、隣国に強大な国家の登場を容認しなかった。一方、ビスマルクの側もドイツ統一を実現するためにはナポレオン3世との対決は不可避と考え、着実に軍備の拡張と戦争準備を怠らなかった。両国の思惑が衝突したのがスペイン王位継承問題であった。ホーエンツォレルン家のレオポルトがスペインの王位を継承することに反対したナポレオン3世は、エムスで休養中のヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)に大使を派遣して、レオポルトをスペイン王につけない保証を迫った。ヴィルヘルムは事態をビスマルクに打電したが、ビスマルクはその電報をあたかもナポレオン3世がプロイセン王を脅迫したかのように改竄かいざんして発表した(エムス電報事件)のでプロイセン国民は怒り、またフランス側もこの処置に反発し、ナポレオン3世はプロイセンに対して宣戦布告して、プロイセン=フランス戦争(普仏戦争またはドイツ=フランス戦争 1870〜71)が勃発した。

軍政の改革が進展して動員組織が十分であり、実戦経験のある精鋭が多かったプロイセン軍が優勢に戦いを進め、スダン(セダン) Sedan の要塞でナポレオン3世を捕虜にすることに成功し、この結果フランス第二帝政は崩壊した。その後パリを包囲し、優勢な戦況を背景にビスマルクは、ヨーロッパ各国に対する外交的配慮もあって1871年1月、ヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国(1871〜1918)皇帝の戴冠式を挙行した。

兵器の改良

19世紀前半までは鉄砲を製造する際に各部品が標準化されていなかった。しかし綿操り機の発明で知られるホイットニーの鉄砲部品の共通化というアイディアと生産方式を基礎として、19世紀後半には兵器の大量生産が可能となった。またドイツの兵器製造家兼商人であるクルップが巨大砲を製造し、それをプロイセンは自国の軍隊に採用してプロイセン=フランス戦争に勝利した。大砲の射程距離は飛躍的にのび、相手の存在が見えないことから人を殺すことに対する人間の嫌悪感が消滅し、大量殺戮につながった。

イタリアとドイツの統一運動年表

51.イタリア・ドイツの統一 イタリアとドイツの統一運動年表
イタリアとドイツの統一運動年表 ©世界の歴史まっぷ

ルートヴィヒ2世

南ドイツのバイエルン国王ルートヴィヒ2世(バイエルン王)は、19世紀後半ビスマルクのドイツ統一の過程で消滅の運命にあった王国を背景に白鳥の城と呼ばれる「ノイシュヴァンシュタイン城」、ヴェルサイユ宮殿を復元しようとした「ヘーレンキームゼー城」(ここの鏡の間はヴェルサイユ宮殿のものより22mも長い)、トリアノン宮殿を模しアルプス山麓に建設された「リンダーホーフ城」など今日南ドイツ観光の目玉になっている壮麗で華麗な城を建設したことで有名である。彼は狂人と宣告されて王位を追放されたあと、謎の死をとげたことでサスペンス的興味をひく人物であり、さらにワグナー芸術の殿堂であるバイロイト祝祭劇場建設に莫大な費用を援助したことでも知られている。

ノイシュヴァンシュタイン城
ノイシュヴァンシュタイン城(画像出典:WIKIMEDIA COMMONS
クルップ
ドイツの軍隊と海軍銃が製造されているクルップ銃作業所(1915年/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

クルップの工場(エッセン):クルップの名前は鉄鋼業とドイツ軍需産業の象徴であり、19世紀初めには10人だった小さな会社が、1873年までに7000人にまで拡大した。

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