ナポレオンのエジプト遠征
イギリスがインドへの植民地支配を強めるにつれ、その中継地としてエジプトの位置が重要となった。ナポレオンは、イギリスの進出をくじくために1798年みずから3万の兵を率いてエジプトへ遠征し、ピラミッドの戦いでマムルーク軍を撃破し、カイロに入城した。
ナポレオンのエジプト遠征
西アジアの動向 エジプト
エジプト | |
1798 | ナポレオンのエジプト侵入(〜99) |
1805 | ワッハーブ派、メディナ占領 |
1805 | ムハンマド=アリー、エジプトの実権を握る |
1818 | ムハンマド=アリー、ワッハーブ朝を滅ぼす |
1822 | ムハンマド=アリー、東スーダンを征服 |
1831 | 第1次エジプト=トルコ戦争(〜33) |
1839 | 第2次エジプト=トルコ戦争(〜40) |
1840 | ロンドン四国条約:ムハンマド=アリー、シリア放棄 |
1869 | スエズ運河完成 |
1875 | エジプト、スエズ運河会社の株式をイギリスへ売却 |
1876 | イギリス・フランス両国によるエジプトの財政管理 |
1881 | ウラービー運動(〜82):イギリス・フランス支配に抵抗するも失敗 マフディー運動(〜98):スーダンがマフディー国家樹立 |
1882 | イギリス軍、エジプトを占領、保護化 |
イギリスがインドへの植民地支配を強めるにつれ、その中継地としてエジプトの位置が重要となった。ナポレオンは、イギリスの進出をくじくために1798年みずから3万の兵を率いてエジプトへ遠征した。エジプトは、オスマン帝国の重要な税収源であり中央から派遣する総督の支配下にあったが、17世紀中には国土の多くは徴税請負(イルティザーム)にだされ、マムルーク軍人がこれを握り、政治の実権をめぐって総督とマムルーク軍人間の権力争いが続いていた。ナポレオンは、このような混乱状態を利用し、7月にピラミッドの戦いでマムルーク軍を撃破し、カイロに入城した。
フランス軍は、「エジプト人やムスリムの友」であることを宣言し、マムルーク勢力の一掃を企図し、指導的なウラマーやシャイフ(村長・部族長)などを集めて審議会を設置するなど、民心のとりこみをはかった。しかし、カイロ市民は1798年10月と1800年3〜4月の2回にわたり反乱をおこした。イギリスは、オスマン帝国を支援して連合軍を派遣し、1800年7月にフランス軍は降伏し、翌1801年のロンドン和平会議によってオスマン帝国の主権が回復した。
1803年にイギリス占領軍が撤退すると、エジプトの支配権をめぐり、オスマン帝国の派遣軍・マムルーク軍人、そして市民勢力の間で争いがくりひろげられた。このなかで、オスマン帝国がエジプトに派遣したアルバニア傭兵隊の司令官であったムハンマド=アリー Muhammad Ali (エジプト総督、位1805〜49)は頭角を現し、1805年5月に、対仏反乱の指導権を握っていたウラマーや商人などカイロ市民の支持をえて、総督(ワーリー wali )につき、オスマン帝国もこれを追認した。