マルティン・ルター ルターの改革
ドイツ、ドレスデンのフラウエン教会前に立つルター像 Wikipedia

ルターの改革

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ルターの改革

16世紀のドイツは、300前後の教会領や独立権をもつ帝国都市が分立し、スペイン・フランス・イギリスのような中央集権国家の形成が遅れていた。ドイツ国王は神聖ローマ皇帝を兼ねており、事実上ハプスブルク家が帝位を世襲していた。政治的分裂状態のドイツは教皇庁の最も重要な財源となり、教会組織をつうじて富はローマに吸いあげられ、ドイツ市民はしだいに不合理な搾取に批判をもちはじめていた。ルターの改革運動はドイツ人の感情と利害に一致する側面をもっていた。

ルターの改革

ルターの改革運動の舞台となった16世紀のドイツは、300前後の大小さまざまの領邦国家、教会領や独立権をもつ帝国都市が分立し、スペイン・フランス・イギリスのような中央集権国家の形成が遅れていた。ドイツ国王は神聖ローマ皇帝を兼ねていたため、世界国家の理念にたって超国家的政策を追求し、また事実上帝位を世襲していたハプスブルク家は自己の勢力拡大に力を入れ、ドイツの国家的統一には関心を示さなかったからである。こうした政治的分裂状態のドイツは教皇庁の最も重要な財源となり、教会組織をつうじて富はローマに吸いあげられ、「ローマの牝牛めうし」と呼ばれていた。ドイツの諸都市の中小商工業者、農民層はしだいにこのような不合理な搾取に批判をもちはじめていた。ルターの改革運動はドイツ人の感情と利害に一致する側面をもっていたのである。
マルティン・ルター
マルティン・ルター像(ルーカス・クラナッハ画/ウフィツィ美術館蔵)©Public Domain

マルティン・ルター(1483〜1546)はザクセンのアイスレーベンに生まれ、代々農家であったが、父は成功をおさめた鉱山業者であった。父の希望でエアフルト大学の法学部に進んだが、信仰にめざめ、厳格さで知られるアウグスティヌス修道会(聖アウグスチノ修道会)に入り、神学研究を深め、ヴィッテンベルク大学の神学教授となった。彼のキリスト教信仰に対する解釈や立場は、「塔の体験」と呼ばれるその激しい内面のドラマと深く関連するが、1517年、ヴィッテンベルク城内教会の扉にはりだされた九十五カ条の論題(意見書)で、贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)販売に対する批判としてまず表現された。ルターは贖宥状の購入が救済になんら意味がないこと、信仰によってのみ救われることを主張したのである。

宗教改革の発端となったルターの論題は、聖職者の間の問題として提起されたものであったが、印刷され各地で売り歩かれ、ドイツ全土で大きな反響を呼んだ。ルターはローマに告発され、1519年、彼と反対の立場にたつ神学者ヨハン・エック(1486〜1543)とライプチヒ(ライプツィヒ)で公開討論会がおこなわれた。ここでルターは、ヤン・フスの説を容認し、自分が異端と同じ立場にたつことを明らかにさせられた。教皇はルターを破門にしたが、ルターは1520年、『キリスト者の自由』など3つの論文を書いて、カトリックの教義批判、自己の信仰の立場を明らかにした。

『キリスト者の自由』のほか『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う』『教会のバビロン捕囚』を執筆した。

ドイツの多くの都市の市民・諸侯がルターを支持した。1521年カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)はルターをヴォルムス帝国議会に召喚して、彼に自説の撤回を迫ったが拒否された。ルターは法律の保護外におかれたが、フリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)によってヴァルトブルク城にかくまわれ、ここから改革運動を指導した。ここでルターは近代ドイツ語に大きな影響を与えた聖書のドイツ語訳を完成した。

ルターとエラスムス

宗教改革は「エラスムスは卵を産んで、ルターがこれを孵した」といわれるように、最初、教会改革については2人の意見が一致していた。デジデリウス・エラスムスとマルティン・ルターは直接会って話したことはなかった。しかし、手紙を交わし相互に強い関心をもっていた。エラスムスも九十五カ条の論題についても好意的であり、キリスト教の正しい精神をよみがえらせることで共同の戦いをしていたのである。
しかし、ルターが自分たちの陣営への参加協力を求めたとき、エラスムスは自分は中立でありたいとしこれを断っている。1524年エラスムスの出版した『自由意志論』に対して、ルターは1525年『奴隷意思論』を書いて激しい批判を加えた。

エラスムスはヒューマニストとして、人間の価値と尊厳を主張し、人間はみずからの意思によって自己を教育し、自己の欲するものになれると論じた。彼は聖書の教え、人間の理性を用いてその主張を組み立てている。一方、ルターは神の前に意思は自分の力で救いを達成しうるかと問い、救済においては人間の意思は神の前に無力であるとする。人間の自由意志の強調が神や他者の排除につながる危険を感じたのであろう。

ルターが『キリスト者の自由』で述べた「キリスト者は自己自身において生きるのではなく、キリストと自己の隣人において、すなわちキリストにおいては信仰をとおして、隣人においては愛をとおして生きる」という立場はここでも貫かれている。

この論争は、エラスムスとルターの神と人間の関係のとらえかたの本質的な違いにかかわるものであったが、この論争のなかでルターが示した尊大・独善的態度に接したエラスムスは、以後ルターとの関係を断ち切るのである。

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