ローマ・カトリック教会の成長
元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要からローマ教会は聖像の使用を容認した。しかし726年、レオン3世(東ローマ皇帝)は聖像禁止令を発布し対立した。751年、宮宰ピピン3世がクーデターによりフランク王に即位すると教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてランゴバルド人を討って領土を奪い、教皇に献じた。この「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。
ローマ・カトリック教会の成長
帝政末期のローマではキリスト教が公認され(313年)、国教化されることになる(392年)が、そのころ正統アタナシウス派の教義に従うカトリック教会には、5つの有力教会(五本山)があった。
- ローマ
- コンスタンティノープル
- アンティオキア
- イェルサレム
- アレクサンドリア
このうちローマ教会は帝国の首都に位置することと、使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張した。ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇(法王)と尊称された。
しかし、330年にコンスタンティノープルへの遷都が行われ、476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノープル総主教は東ローマ帝国皇帝の権威を後ろ盾にローマ教会の首位性を否定するようになった。
ベネディクト派
こうして両教会の首位世をめぐる対立が激化する中で、グレゴリウス1世(ローマ教皇)は北からのランゴバルド人の圧力に対抗しつつ、東ローマ帝国皇帝の支配から離脱しようと試みた。そのため、カトリックのフランク人に接近するとともに、他のゲルマン諸部族への布教に努力し、西ゴート人やアングロ・サクソン人の改宗に成功した。
その布教活動の中心となったのは、教皇の保護をうけたベネディクト派の修道士であった。このベネディクト派は6世紀前半、中部イタリアのモンテ・カッシーノに修道院を創設し、「祈り、そして働け」に要約される戒律を定めて、修道院運動の推進と民衆の教化に努めたヌルシアのベネディクトゥス(480〜543)に由来する。ベネディクト派修道院は、アイルランド修道院とならんで西欧キリスト教世界の形勢に大きな役割を果たした。
聖像崇拝論争
東西両教会の対立を深めたもうひとつの要因に、聖像崇拝論争がある。元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要から、ローマ教会は聖像(キリストや聖者の画像・彫像)の使用を容認した。しかし、東ローマ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、また皇帝専制の障害となる修道院勢力が聖像崇拝派であったことなどから、726年、東ローマ帝国イサウリア朝初代皇帝レオン3世(717〜741)は聖像禁止令を発布した。その結果、ローマ教会は東ローマ帝国にかわる政治勢力を新たに求めるようになった。
ピピンの寄進
そこに登場したのがフランク王国の宮宰カール・マルテルである。カール・マルテルはイスラーム軍を撃退し、フランク王国の実質的な支配者となっていたが、メロヴィング王家にとってかわるためになんらかの権威が必要であった。また、ランゴバルド王国の南下に苦しむローマ教皇も、有力な保護者を待ち望んでいた。そこで751年、ピピン3世(小ピピン)がクーデターにより即位すると、教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてイタリア遠征をおこない(754、756)、ランゴバルド人を討って領土を奪い、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇に献じた。このいわゆる「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。