ローマ社会の矛盾
元老院議員は政治軍事指揮を担当し、戦争や属州統治によって大きな富をきずき、イタリアの公有地占有や農民からの土地の買い占めで大土地経営を行った。市民間の格差の広がりは、本来土地所有農民が軍隊の中核をなすというローマ軍制が危機に陥っていることを意味していた。
ローマ社会の矛盾
しだいに発展を続けるローマの社会では、市民の間の階層差が大きくなっていた。元老院議員は政治軍事指揮を担当し、戦争や属州統治によって大きな富をきずき、イタリアの公有地占有や農民からの土地の買い占めで大土地経営を行った。所領には戦争捕虜などの奴隷を投入して過酷な集団労働を行わせ、商品作物を生産した。このような大土地所有をラティフンディアと呼ぶ。
また議員たちは民会の選挙でより高い地位の政務官に選出されることを望み、自分の財産で競技を催したりしてローマ市の平民の支持を得ようとするのが常であった。平民の中でも特に富裕なものには、紀元前3世紀頃から騎士(エクイテス)の身分が与えられるようになった。これは騎兵になるわけではなく、上層市民の資格であった。元老院議員は紀元前3世紀末の法で海外貿易などの商業行為をすることを禁じられたから、騎士身分がローマの商人・資本家として活躍することになった。彼らは高利貸しや属州の徴税などの国家事業を請け負って属州民を搾取し、得た富をイタリアの土地に投資してやはり大所領を経営した。
これら富者の出現の一方で、イタリアの中小土地所有農民は没落せざるを得なかった。重装歩兵として何年も従軍したものは、戦死したり留守中に農地が荒れるなどして窮乏化していった。彼らは富者に土地を売り渡し、無産市民になった。
また属州からは安価な穀物が多量に輸入されて、イタリアの農民の商品穀物の生産はさらに圧迫された。無産化した多数の農民が首都ローマに流れ込んでいった。彼らは市民権は失っていなかったから、民会の投票権をもっており、政治家たちは彼らに穀物を安価に供給する法をつくったり、金品を与えたり、競技・ショーなどを催したりして、自分の支持者に取り込もうとした。このように国家や有力者から無産のローマ市大衆が受けたさまざまな援助を「パンとサーカス」と総称する。大衆がそれを有力者に要求して圧力をかけたり、またそれと引き換えに有力者に率いられて破壊的な行動をすることも顕著になっていった。
政治権力をめざして争う有力者の間には、貴族やノビレスなどの名門で、元老院を中心に伝統的権威を重んじる閥族派と、同じ名門のものも含まれるが、より平民の権利の拡大をめざし、護民官などを拠りどころにする平民派との対立が生じてきた。彼らがローマ市の大衆に働きかけ、抗争に利用しようとしたのである。またこのような市民間の格差の広がりは、本来土地所有農民が軍隊の中核をなすというローマ軍制が危機に陥っていることを意味していた。
ローマの奴隷制
ローマの拡大にともなって奴隷の数も急速に増えていった。ことに地中海沿岸各地でローマに抵抗して敗れた人々は、何万人という規模で奴隷市場に売り払われた。イタリアでは特に奴隷制が発達し、それはギリシアよりも徹底したかたちをとった。
最低2〜3人の奴隷すら持てない市民は軽蔑されるほどであったという。奴隷のなかにはギリシア出身の教養のあるものもおり、彼らは主人の家で家庭教師などをつとめ、人間的な扱いを受けた。しかしイタリアやシチリアに最も顕著だったのは、大所領における集団農耕奴隷であった。シチリアでは紀元前135年と紀元前104年の2度にわたって奴隷反乱が生じ、一時は全島に広がった。奴隷はそのほか公共のため、警察や消火の任務にもついたが、市民の見世物とされた剣闘士奴隷の境遇は悲惨であった。
紀元前73年に、その剣闘士たちはトラキア人剣闘士スパルタクスに率いられてカプアの養成所を脱出し、農耕奴隷や貧農をも引き込んで反乱を起こした(第三次奴隷戦争)。一時は数万の奴隷軍がイタリア各地でローマ軍を破るほどであったが、祖国への帰還を果たすことに失敗して多くは処刑された。うちつづく奴隷の反乱は奴隷制に対するローマ人の態度を少しずつ変えていったと思われる。
紀元前1世紀のストア哲学者は奴隷への人間的な扱いを主張するようになった。最もローマ人は奴隷の解放はよく行い、ことに主人の下で管理人のような任務を務めた奴隷は経済的にも豊かになり、自由身分を容易に買いとることができた。ローマでは解放された奴隷には市民権が与えられ、社会的に成功する者も少なくなかった。ローマの奴隷制は1世紀までが最盛期で、以後はしだいに衰えるが、古代末期にいたるまで存続した。
ローマは5年ごとに人口調査を行なったが、その数値が断片的に諸史料に引用されており、それらを集成したもの。市民数は成人男性だけなのか女性・子供を含めているのかどうかはわからないものが多い。